※なんか「サイエンスコミュニケーション」の略称は「科学コミ」に落ち着きそう*1なのでタイトルに使ってみました。
先日こんな記事を書いたところ
思いがけない展開となってまいりました。経緯、関連エントリなどは下記を参照。
さて、この流れの直接のきっかけになったのはばらこさんの以下のエントリの3)の提言なわけですが
それ以外についても今後考察や情報が増えてくると良いなあ。まあ1) 4) 6)辺りは以前から活動があるとは思うのですが。
さて、今回気になったのはlets_skepticさんのエントリについたid:himajin774さんの以下のブコメ。
それまで無邪気に信じていた価値観に失望して、逆にそれを批判する側に回るというのは、ある種の王道だよね。ニュートラルな人にはその熱意が(方向性に関わらず)不気味に見えちゃうのかな。
はてなブックマーク - 信奉者だった僕はどのようにして懐疑論者と呼ばれるようになったか - Skepticism is beautiful
僕は以前からこれ(に類する問題)を勝手に「熱意の非対称性の問題」と呼んでいて、以前こんなエントリを書きました。
ここで主に言いたかったことは
他人が自分の知らない何かについて憤ってくれる」こと、そして「それをきちんと説明・表明してくれる」ことって結構ありがたいことだ
熱意の非対称性の問題とか - 思索の海
ということでした。
でも、やっぱり強い熱意を伴った情報発信ばかりだと、それに向き合ったり処理するのは大変、ということはあるわけで、特にコミュニケーションの問題を考える上では重要な問題だと思います。
だからといって何か良い提言があるというわけではないですし、これも以前からずっと意識されてきた問題だとは思うのですが。
僕がぼんやりと思うのは、怒ってくれる人/ことも、冷静に語ってくれる人/ことも、両方あった方が良いんじゃないか、ということぐらいでしょうか。もちろん程度問題はあるでしょうね。
おまけ:ごく平凡な個人史
なんかあまり紹介できるような歴史も無いのですが、そういうカジュアルなのもあっても良いかと思いまして。
黒?歴史
あまり超能力・超常現象などにはまった記憶が無いです。MMRは好きでしたが、内容を自分で調べるとか友達に広めようとするとかってことはしなかった記憶があります。
マイナスイオンについてはニセ科学の話題に出会うまで問題があることすら知らなくていくつか商品を買ったこともありますし、血液型性格判断については松井豊先生の授業で問題であるという見方には触れたものの*2、具体的な問題について考えるようになったのはずっと後のことです。あと、このブログで池田清彦氏の脳死臓器移植についての本を好意的に紹介したことがあるのも黒歴史の一種になるかな?
学部生の頃に不完全性定理関係の新書にはまったことがあったので、あの時ブログとかツイッターが無くてホント良かったと思います。あったら絶対エラそうなこと書いてさらされてた。まあそこから心の哲学や科学哲学にも興味を持ち出して、言語学の道を志すことにつながっていくわけですが…
こういう問題に関わるようになったきっかけ
最初はkikulogだった、ということだけ覚えています。ずっとROMってましたが、自分でも発言するようになったのはやはり水伝の批判記事を書いたのがきっかけですね。その後、金谷武洋氏の『日本語に主語はいらない』の批判と、自分が研究の道に進んだことなどがあって、専門家と非専門家の関係という視点から色々な問題を考えるようになります。ここには自分の専門である言語学を科学論・科学哲学から見る、という問題意識も一部関わっています。
ちなみに
自分がやってきたことを他人におすすめできるかというと、あまりできませんね。しんどいことも多いですし、ある程度時間も取られますし。ただ僕としては以下のことは大きな利点というかとても良かったと考えているので、あまり後悔しないで済む理由になっています。
- 専門外の/専門が違う方に向けて情報発信をしたり、そういった人たちとやりとりをする経験をした。
- 専門領域内外で、多くの嬉しい出会いがあった。
特に後者に関しては全く想定していませんでした。何度も言いますが出会いに感謝。この出会いをなんとか生かしていければよいのですが…*3今後もあまり無理せず自分のペースでのんびりやっていきたいですね。