文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「日米安保」共同幻想論ー尖閣問題は「中国問題」ではなく「日本問題」である。

尖閣事件は、尖閣問題発生直後に、中国の軍事施設を秘密に撮影していたとか言う理由で逮捕されていた「フジタ」の社員四名のうち、三人が釈放され、また中国政府が「謝罪と賠償」という烈しい日本攻撃のカードを引っ込めたらしく、報道官の喋り方が、軍事行動や戦争をも辞さないというような高圧的な強硬姿勢から一転して、何やら親善ムードに転じたことなどから、菅直人内閣を含めて、日本側には一先ず一件落着のような安心ムードが広がりつつあるが、僕は、一件落着はまだ早いと思う。今回の尖閣事件は、多くのことを日本及び日本人に教えてくれたと思う。言い換えれば、今回の尖閣問題は、中国問題でもなく、また米国問題でもなく、まぎれもなく日本問題であることを知るべきだろう。鳩山内閣時代、米国普天間基地の海外移設問題が浮上し、我々は、改めて沖縄の米軍基地問題の存在を現実の緊急問題として知ることになり、そして同時に戦後日本における米国の植民地支配の実態を知ることになったわけだが、尖閣事件もまた、我々に、単に領土問題や中国問題ではなく、あるいは米国との関係における日米安保の問題でもなく、日本及び日本人の思想問題を突きつけてくれたと考えないわけにはいかない。おそらく、多くの日本人は、漠然と考えていたかも知れないが、しかし、深く考えることを避けてきた問題、つまり国境を接する中国や北朝鮮、韓国、そしてロシアという近隣諸国との関係が、必ずしも常に平和的、友好的なものであるわけではなく、場合によっては軍事衝突や戦争も起こりうる可能性を秘めているのだということを、思い知ったはずである。僕は、中国や北朝鮮の挑発に乗って、武力行使をしろとか、戦争をしろ、と言いたいわけではない。我が国は、中国や北朝鮮、韓国、そしてロシアという近隣諸国との間で、武力衝突や戦争が起こりうるような状況にあるということを認識すべきだと言っているにすぎない。米国は、たとえ日米安保条約があったとしても、日本が侵略されようと武力攻撃を受けようと、日本を護ってはくれないことが、今回の尖閣事件でも明確になった。夢見る日米安保マフィアの少年政治家・前原外相は、一時の気まぐれにかどうか知らないが、ヒラリー・クリントン国務長官との会談で、ヒラリーが、「米国は、尖閣諸島は日本の領土である、日米安保の範囲内であると考える」というような日本に好都合なことを言ったと解説し、日本の新聞、テレビも、情報を検証、確認することもなく前原外相の言うがままに垂れ流したわけだが、真相はというと、クリントンは、そんなことは言っていないらしい。ただ、「二国間で、話し合いで解決してくれ。米国はそれを見守る」ということだったらしい。まあー、口先男・前原誠司の話はどうでもいいが、米国が、日本が巻き込まれるだろう国境紛争の類にまで介入しないことは確実である。米国が米国の利害関係を優先するのは当然だろう。とすれば、日本は、自分の手で自分の領土と安全は護らなければならないわけで、対米自立と自首防衛、そして米国の核の傘の外に出るわけだから、たとえどのような障害や困難があろうとも、中国、北朝鮮、ロシアが「核」を背景にした軍事力を日本にたいする恫喝外交の道具にする以上、つまり異なる価値観、異なる外交ルールを保持している以上、彼等と向き合うためにも日本も核武装するしかない。日本及び日本人が、今、直面している現実は、日本的な、あるいは戦後民主主義的な正義や道徳が支配する世界ではなく、力と力がせめぎ合う、いわば野蛮な、非合法の世界である。我々は、戦後、米国の核の傘に護られて、母親に抱かれた赤子のように安眠を貪ってきたわけだが、むろん、それでも良かったわけだが、しかし、赤子の眠り、つまり奴隷と属国の平和を望むなら別だが、誇りある国家、国民でありたいと思うならば、これ以上安眠を貪っているわけにはいかないだろう。小林秀雄は、「何故、戦争は起こるのか」という問いに対して、こう答えている、「人生そのものが戦争だからだ」と。あるいはニーチェは、『道徳の系譜学』で、「弱者」が陥る自己欺瞞と道徳主義を批判して、こう言っている。「抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられたも者は、無力な者の復讐のための狡知から、次のように自分に言い聞かせて、みずからを慰めるのだ。『われわれは悪人とは違う者に、すなわち善人になろう! 善人とは、暴力を加えない者であり、誰も傷つけない者であり、他人を攻撃しない者であり、報復しない者であり、復讐は神に委ねる者であり、われわれのように隠れているもの者であり、すべての悪を避け、人生ににそれほど多くを求めない者である。われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである。』ーーしかしこの言葉を先入見なしに冷静に聞いてみれば、そもそも次のように言っているにすぎない。『われわれのように弱い者は、どうしても弱いのだ。われわれは、それを為すだけの強さをもたないことは何もしないほうがよいのだ。』この口に苦い事実は、もっとも低い次元の狡知にすぎず、昆虫ですらもっているようなものにすぎない。これは無力なもののもつ贋金作りの技と自己欺瞞の力で、諦めのうちに静かに待っているということを、美徳として飾り立てることなのである。」(『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫、P75) このニーチェの言葉を借りて言うならば、日米安保なるものも、弱者の自己欺瞞に過ぎず、文字通り、戦後の日本人が、みずからの弱さを隠蔽するために、美徳として飾り立てた粉飾物にすぎない。


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