文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

朝日新聞は、何故、「野田・谷垣密談」を知っていたのか? 2月25日、密かに行われたという「野田・谷垣密談」を、なんと朝日新聞は知っていた。とすれば、この密談の仕掛け人は朝日新聞か、あるいは朝日新聞と気脈を通じた「組織」だということになる。しかもその後の党首討論は「ヤラセ党首討論」だったということになる。いずれにしろ、「野田・谷垣密談」の大きな目的が、消費税増税を狙う勢力による「小沢一郎排除」であり、「小沢一郎排除を前提にした大連立」であることは明白だろう。それにしても、「小沢排除」「小沢潰し」を政治目的に


松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いたコースをたどりながら、二泊三日の東北旅行に行ってきた。芭蕉は、決死の覚悟で「奥の細道」の旅に出た。気軽な旅ではなかった。たとえば、有名な「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という句は、まさに旅の途中で病にかかり、床に伏しつつ、つまり死線を彷徨ううちに作った句だった。僕は、つい最近まで、芭蕉という存在にそれほどの深い関心を持っていなかった。いわゆる「3・11」以後の軽薄この上ない言論状況の中で、そういう薄っぺらな言論状況に異を唱える文藝評論家の井口時男氏が書いた重厚なエッセイを読んで、芭蕉の俳句と人生の厳しさを知り、あらためて芭蕉を読む気になった。日本の文学の根底には「作品と生活の一体化」という問題がある。近くは私小説私小説作家がそうであったし、古くは出家歌人西行がそうであった。最近、「作品がすべてだ」とか、「作品は作家の生活とは関係ない」という意見が強い。それが、最近の流行思想である。むろん、それが日本文学の沈滞と劣化の原因だと僕は思っているから、芭蕉の「旅」に興味を持った。芭蕉にとって「旅」とは何だったのか。おそらく、芭蕉にとって、旅は、「作品と生活の一体化」そのものだった。芭蕉は旅に出る時は、家を引き払い、全財産を処分している。「故人も多く度に死せるあり」と書いた芭蕉にとって、旅とは死を前提にした旅だった。作品がすべてではない。むしろ、「生活」、ないしは「生き方」がすべてだ、そういう覚悟が芭蕉の文学精神だと思われる。僕は、最近の文学が見失ったものがそこにあると考えた。むろん、これは文学者だけの問題ではない。政治家や政治評論家、ジャーナリストにもそのまま当てはまるはずである。美辞麗句を並べ立てるだけで、約束を次々に反故にしていく最近の政治家たちは、まさしく「政治と生活の一体化」を無視しているということが出来る。しかし、政治家には選挙という現実が待ち構えている。「政治と生活の一体化」が試されるのである。たとえば次期選挙で、民主党は壊滅的な敗北を喫するだろうことは、誰の眼にも明らかである。




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