ジル・ドゥルーズ『感覚の論理 フランシス・ベーコン論』

ジル・ドゥルーズ『感覚の論理 フランシス・ベーコン論』(法政大学出版局)は、前半がドゥルーズの論考、後半がフランシス・ベーコンの画集となっている。
フランシス・ベーコンについては、 http://www.francis-bacon.cx/ が詳しい。
上記のサイトをみていただければわかるように、フランシス・ベーコンの絵画は、冷たい抽象に向かっていない。ドゥルーズは、絵画の方向性を抽象的形態(la forme abstraite)に向かうものと、形体(la Figure)に向かうものがあるとし、フランシス・ベーコンの絵画を形体(la Figure)という概念から解明しようとしている。
哲学と絵画の結びつきでは、モーリス・メルロ=ポンティセザンヌの関係が思い出される。セザンヌ静物画は、存在するということ自体を問題にしており、モーリス・メルロ=ポンティ現象学と深いところで共鳴したのである。
では、フランシス・ベーコンはどうか。彼の絵画は生成を問題にしており、<〜になること>を問題にしている。フランシス・ベーコンは、生命の流れや力を、ダイレクトに把握しようとしている。これはまた、ドゥルーズの問題群でもある。
というわけで、ジル・ドゥルーズのこの論考は、絵画論として、そして生命の論理を語った著作として読むことができるのである。

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

島田雅彦詩集『自由人の祈り』

島田雅彦の小説は、大変技巧的な作風であり、特に『未確認尾行物体』でのエイズをめぐる物語は、免疫のディコンストラクション(脱構築)を主題とするもので、その極みといえた。ところが、詩集『自由人の祈り』(思潮社)に収められた詩、特に「またあした」という全編ひらがなの詩は、非常に素直に心情が語られており、また異なる素顔をみせている。
「せかいとぼくはたたかっている/きっとせかいがかつだろう/ほくにみかたはいるのだろうか」と書く島田雅彦は、この世界との齟齬の感触を語っている。たぶん、島田雅彦にとって、最近の世界や日本の状況はますます悪くなっているに違いないのだ。
島田雅彦は、自身を「自由人」と規定する。「自由人」で、永遠の青二才だからこそ、見えてくるものがある。次第に自由が制限され、息苦しい世の中になってゆきつつあることに。
小説においては、高度な技巧性がマイナスに働いてしまうことがある。島田雅彦に奔流のような荒々しい文章を期待したり、パワーのあるところを期待することはできない。
しかし、島田の占めるその位置は、大変共感できる。「自由人」でエピキュリアンであること、そこに抵触するあらゆる権力に対峙すること。
ここで、私も島田に返答することにしよう。<せかいときみとのたたかいで、きみがまけたとしても、つぎつぎときみのなかまがたちあがるだろう、ぼくもまたきみのなかまだ>

自由人の祈り―島田雅彦詩集

自由人の祈り―島田雅彦詩集