リヒテンシュタイン  ──華麗なる侯爵家の秘宝──

 12月7日、国立新美術館で目下開催中のリヒテンシュタイン展を観にいってきた。侯爵家の膨大なコレクションが展示されていて、丹念に鑑賞したせいか、見終わる頃にはかなり疲労を覚えた。スカイツリーの下の東京ソラマチで家族と待ち合わせ、夕食を一緒に食べた。

  「バロックサロン」は作品数も多く充実していた。やはりなんといっても圧巻は「ルーベンス」の部屋であった。幼い娘のクララ・セレーナ・ルーベンスを描いた肖像画に人気が集中している感じであったが、「キリスト哀悼」や「デキウス・ムス」連作もすばらしかった。豊満な質感をもち、それでいて緻密な計算に基づくルーベンスの絵には、とにかく圧倒される。17世紀フランドルのピーテル・ブリューゲルに倣った2世の「ベツレヘムの人口調査」も面白かった。小品ながらビーダーマイヤー時代のフェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの花瓶と花の絵や、フリードリヒ・ガウアーマン「干し草車」なども印象に残った。17世紀以降中国や日本の磁器がオランダ経由で流入し、それらを模した巨大な枝付き燭台も見事なものであった。
                        (F.G.ヴァルトミュラー「磁器の花瓶の花、燭台、銀器」)

  個人的には、中欧に君臨したハプスブルク家と小国のリヒテンシュタインとの深い結びつきに興味が引かれる。ハプスブルク家の忠実な寵臣として活躍したリヒテンシュタイン家は、1608年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世より世襲制の侯爵位を授与され、最初のリヒテンシュタイン候となる。

 1699年にシェレンベルク領(現在の侯国北部)を購入、1712年にファドゥーツ伯領(現在の侯国南部)を購入し、1719年にこれらを併合した領土が神聖ローマ皇帝カール6世より帝国に属する領邦国家として承認され、リヒテンシュタイン侯国が誕生する。しかし、侯国の成立後も、リヒテンシュタイン候とその一家は主にウィーンに居を構え、1938年に侯国の首都ファドゥーツに移り住むまで、この習慣は続く。
 1806年、神聖ローマ帝国の崩壊を受けて、侯国は同年ナポレオンが結成したライン同盟に参加し、独立国として承認される。1815年以降はドイツ連邦に加盟するが、1866年の同連邦の解体により、再び独立国となる。
 1938年リヒテンシュタイン侯爵家は、ウィーンから侯国の首都ファドゥーツに移り、以後ファドゥーツ城を居城とするリヒテンシュタイン侯爵家は、本格的な美術品の収集家としても知られるが、侯爵家は優れた美術品の収集が一族の誉れとなるという理念をもち、これを家訓として歴代の諸侯に受け継がれ、爾来傑出した美術コレクションを誇っている。
 18世紀初頭、侯爵家の避暑用の住まいとして、ウィーン郊外のロッサウに造営された「夏の離宮」は、バロック様式を特徴とする宮殿で、左右対称の堂々たる外観を誇り、その室内は漆喰装飾と色鮮やかな天井画によって、華やかに装飾されている。落成から約1世紀を経た1807年より、ここで侯爵家の美術コレクションが公開されている。
            

                             ウィーンの夏の離宮に収蔵され、1807年より公開されていたリヒテンシュタイン侯のコレクションは、オーストリアがドイツに併合された1938年に公開中止となり、安全な場所への移動が計画される。しかし、ナチスの反対などで移送作戦は難航を極めるが、必死の努力により、コレクションは、最終的に侯国の首都ファドゥーツに移送される。2004年にウィーンの夏の離宮で66年ぶりに再公開されるまで、美術コレクションはファドゥーツ城に秘蔵されてきたが、1985-86年にニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された大規模な展覧会によって、その秘宝が世界に知れわたることになった。