「魚服記」再考


 

 太宰治の「魚服記」は、太宰が若い時(満27歳)に刊行した第一創作集『晩年』に収められた短編である。なぜ15編の作品を収めた処女創作集に、『晩年』などという奇妙な題名を付けたのか。単なるポーズや擬態ではなく、自殺を前提として遺書のつもりでこの作品集を書いたのだ、というのが大方の見方である。ここで断わっておくが、太宰には「晩年」という題名をつけられた作品はない。
創作集『晩年』に収められた冒頭の短編「葉」の書き出しは次のようになっている。

    撰ばれてあることの
    恍惚と不安と
    二つわれにあり        
               ヴェルレエヌ

  
   死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉とし  
  てである。着物の布地は麻であった。(中略)夏まで生きていようと思った。


 太宰の発想に直接影響を与えたとされる上田秋成の「夢応の鯉魚」との異同や比較の問題、さらに柳田国男の『遠野物語』や「山の人生」などとの関係、あるいは太宰の原作に濃厚な腐葉土としての養分を与えた津軽の民話や土俗、風土性、湖沼生成伝説などのフォークロア的要素、こうしたものの影響関係を抜きにしては、この作品は論じられない。
 昭和57年5月号の『国文学』での二人の研究者による「魚服記」をめぐる論争は、ある意味でこの作品の根幹に関わる重要な問題を提起している。この作品の「叙法」ないしは「語り」をめぐって、鳥居邦朗氏は「魚服記」は「いわば客観的方法によって書かれている」と位置づけ、「伝統的ないわゆる小説の形にはまった作品として出来上がっている」と述べている。それに対し、三好行雄氏はこの発言に疑義を呈し、「鳥居さんは客観的小説だ、とおっしゃったでしょう。だけど、たとえばああいう変身譚みたいなものはリアリズムという概念からはずれているんじゃないですか」と述べている。
 この両者の発言上の差異をめぐって、鶴谷憲三氏は、『魚服記』の「叙法」あるいは「語り」の様態に焦点を絞って、異なった視点からこの作品を検討している。(鶴谷憲三:「魚服記」の「語り」ーその様態への一つの試みー)
この物語の語り手をどのような存在として考えればよいであろうか。物語の導入部である第1章は、物語の舞台となる馬禿山と義経伝説、馬禿山の裏手にある滝と、滝壺を囲む絶壁に登って羊歯類を採集していた色の白い都の学生が転落死したことが客観的な語り口で描写される。一応通常の意味で全知的な語り手による語りと考えてよいだろう。(未完)