義仲寺(国指定史跡)


 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。この辺りは琵琶湖に面し、古くから景勝の地であるが、義仲寺は木曽義仲公御墓所である。治承4年(1180)義仲公は信濃平氏討伐の挙兵をし、寿永2年(1183)5月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、7月京都に帰還した。翌寿永3年、鎌倉の源頼朝の命を受けて都へ上ってきた源範頼義経の軍勢と戦い、敗れてこの地で討ち死にされた(享年31歳)。その後、「われは名もなき女性」と称する美しい尼僧が義仲公の御墓所のほとりに草庵を結び、熱心に日々の供養に努めた。この尼僧こそ、義仲公の側室巴御前であった。寺の境内には、巴塚(供養塚)が立っている。
俳人芭蕉は、この寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在した。芭蕉は、元禄7年(1694)5月11日に江戸を発って最後の旅に赴く。伊賀上野に帰郷後、5月18日膳所に入り、22日落柿舎を訪れる。7月5日京都の去来宅に移る。7月中旬から9月8日まで伊賀上野に帰郷し、8日伊賀上野を発って、9日夕方に大阪に着く。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日午後4時頃、大阪の旅舎で亡くなった。享年51歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、基角など門人10人が遺骸を守り、川船に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜木曽塚の右に埋葬された。門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。(上の写真参照)

義仲寺境内の芭蕉の句碑は、次の三つである。「行春(ゆくはる)をおうみの人と惜しみける」「古池や蛙飛(とび)こむ水の音」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」

左の写真の句碑「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は、伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の有名な句である。
  

[ここに掲げた写真はいずれも、筆者が大学時代、三鷹の寮で同室だった親しい友人たち4人と5年前洛北の景勝地八瀬に集合して旧交を温め、大原、寂光院三千院などを廻って、翌日はロープウェイなど利用して比叡山延暦寺に上って、琵琶湖を遠望した後、三井寺、大津、石山寺へと足を延ばした時に撮ったものである。