あればあったでなければないで
というわけで(もないが)文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)読了。中野孝次に捧げられた(と受け取ってます)結語
それにしても、怨念なくして、どうして人は書くなどという行為をなしえるだろうか。
だが、怨念だけで、どうして書きすすめることができるだろうか。このように書きつづけていくとき、たとえ「文学」から遠く離れていようと、そんなことは、もはやさほど重要ではなくなるのだから。
を泣きながら引用しておく。
漱石が
読了。ためになる。戦後を通じて漱石は(当然ながら)国語教科書に組み込まれているわけだが、その組み込まれ方の布置が時代によって異なること。まあそれはそうなんだが、1949年検定の高校教科書『新国語 ことばの生活 三』の『虞美人草』の取りあげ方
「きみはあいきょうのない男だね。」
「きみはあいきょうの定義を知っているかい。」
「なんのかのと言って、一分でもよけいに動かずにいようという算段だな。けしからん男だ。」
「あいきょうというのはね。−自分より強い者をたおす柔らかい武器だよ。」
「それじゃ、ぶあいそうは、自分より弱い者をこき使う鋭利なる武器だろう。」
こうしたやりとりを中心とした本文の後に、「研究」というコーナーが置かれている。これも戦後の検定教科書制度のもとでなされた民間教科書会社の開発の所産だ。本文の前のリード文のほか、こうした部分で教材に込められた意図が示され方向付けがなされる。この教材については、二人の会話のおもしろさはどういう点からきているか、こうした談話の態度は他の一般的な場合にも好ましいといえるか、甲野さんの「あいきょう」の論理をたどってみよう、談話におけるあいきょうについて話し合ってみよう、などの設問が付けられている。この教材に込められた意図は、漱石作品えお深く読み味わう、といった文学的なものではない。ここには「あいきょう」というより言論そのものが「自分より強い者を倒す柔らかい武器」たるべきという象徴的な意味が込められているが、「言論」分冊に配置された漱石作品は、談話技術教材として言論社会を下支えすべく期待された民主主義の教材だったのだ。漱石の卓抜な話術によって、おもしろみと愛嬌、そして独白ではなく相手のいる談話を例示し、これを通して公共的な言論の力の獲得が目指されていたのである。
こんな漱石ってあんまり想像できないよね、って僕たちが思ってしまうのは後の教科書が、「(私小説作家と違って)漱石が表層的な西洋受容にとどまらず、それを突き抜けて(日本文学で唯一)世界文学に連なることが出来た」、とか「エゴイズムの批判者」という読みの準拠枠を用意し、僕たちもそれを自明視するほどにはそれらを内在化している、という側面があるから。でも、漱石がこんな風に教科書に取り上げられていたということは覚えていて損はないと思う。
そういえばこんなのもあった
これは中学の国語教科書の分析が中心だけど。(どっちにしても中高通じて国語の授業で教科書を使用していた記憶があまりないけどもね、僕は)
今日購入した本
1.『ゴシックとは何か』(ちくま学芸文庫)酒井健
文庫落ちの方が値上げなんて
2.『芸術原論』(岩波現代文庫)赤瀬川源平
『パリ感覚』渡辺守章は5月30日に延期になった模様
3.『吉野作造評論集』(岩波文庫)岡義武編
復刊。今月は復刊に読みたい書籍が多い。
4.『河馬に噛まれる』(講談社文庫)大江健三郎
未読でした。
5.『審判』(白水uブックス)カフカ 池内紀訳
次は『城』
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