氷上散歩記


今朝はアイスバーン(Eisbahn)を華麗にスケーティングしながら散歩した。というのは真っ赤な嘘で、三度、後ろにのけぞって、しりもちをつきそうになった。その度に無理な姿勢で堪えたので、腰が少々痛い。風太郎は生まれつき四輪駆動でスパイクタイヤを装備しているので、転ぶことはまずないが、それでも、気を抜くと、足をとられ、バランスを崩すことがある。これからの季節、摩擦係数が小さくなった凍結路面を、いかに力まず、滑るように歩くか、が雪国歩行技術上、厳しく問われることになる。

凍結路面の表情。

つららの下がった紫陽花。

昨シーズンの圧雪によってデフォルメした自転車。ずっと放置したまま。

網走に住む友人が送ってくれた庭の樹々の冬囲いの様子。ほとんどアートである。

Sparrows singing

http://video.google.com/videoplay?docid=9011436149753993466&pr=goog-sl
今朝、散歩の帰りしなに立ち寄った公園で賑やかに囀っていた雀たち。4秒。撮影直前には数十羽いた雀たちは、レンズを向けると一斉に飛び立ってしまい、三羽だけになった。その内の一羽が飛び立つ瞬間が写っていたのは良かった。

利己心の逆説


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SWITCH ON Exiteの片岡義男さんによるペーパーバックを紹介するBlogを読んでいて、ある記事が目に留まった。

アイン・ランドのこの本が、自分のペーパーバックのコレクションのなかにあるのを確認するのは、たいへんにうれしい。『利己心という徳行』という彼女の著作の、一九六四年のシグネット・エディションだ。二十代なかばの自分がこの本も買った事実を、まずは喜びたい。まずはとは言っても、買ってから四十年がすでに経過しているのだが。
 セルフィッシュという言葉は、自己本位な、利己的な、わがままな、といった意味の形容詞だ。それの名詞型が、この著作のタイトルにある、セルフィッシュネスだ。肯定的な意味はほとんどないように思われているが、アイン・ランドによれば、これこそが人にとってもっとも重要な、倫理的な規範なのだ。
 利己心とは、自分にとってもっとも重要だと自分が思うことを、徹底的に追求してやまない姿勢を意味している。自分にとってもっとも重要なことをかたわらに置き、自分の外のどこかにすでにずっと以前からある規範に身を寄せるという生きかたのなかに、いったいどんな倫理的な規範があり得ると言うのか、とランドは主張してやまない。
 人がこの世を生き抜いていく営みにとって、立脚点となり得る唯一のリアリティは倫理的な規範であり、自分の関心や興味、方針などを、合理という論理のなかでどこまでも追求することをとおしてのみ、それは生み出されてくる、とランドは説く。そしてこのような生きかたを可能にするためには、およそ考え得る最大限の自由がないと、どうにもならない。だからアイン・ランドは、これこそがアメリカの神髄だと言っていいほどの、もっともアメリカ的な自由を信奉する人だ。
 自分にとっての最大の関心事を徹底的に追求するにあたっては、常にその人はそれを邪魔したり妨害したりする力と、可能なかぎりどこまでも戦わなくてはいけない。そしてその戦いは合理という論理のなかでおこなわれるのだから、追求してやまない利己心は、徹底した社会化の過程をくぐり抜けていく。この世を生き抜いていくにあたって、人がなんらかの価値を生み出すのは、唯一このようにしてであるというのが、アイン・ランドの提唱したオブジェクティヴィズムだ。副題にあるとおり、これはまさに、「エゴイズムの新しいとらえかた」だ。
 アイン・ランドの考えかたは、完璧に新しいものではないし、画期的なものでもない。アメリカにはその創世の時からすでにある、したがってもっとも古い自由主義だ、と言っていい。もっとファナティックな自由主義がいちばん古いとするなら、合理という論理のなかを人が生き抜いて生み出す徳行としての価値、などと厳しい条件をつけるランドの自由主義は、アメリカで二番目に古い自由主義だということになる。
「46 利己心という徳行」

なるほど、と思った。これを読んで、先日刺激的な対話を交わした増井雄一郎君を想起した。彼はランドが主張するラジカル(根底的)な利己心を貫いている稀有な日本人の若者だと再認識した。

エグジログラフィ:非本質的所属

以前、ウェブ進化をどう見たらいいかという文脈で「エグジログラフィ」について書いた。
「ウェブ進化とエグジログラフィ」http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060915/1158285386

昨日から、家族あるいは共同体について考え始めていて、再び、エグジログラフィの問題が浮上してきた。

移民や亡命者の自伝のことを、彼ら/彼女らの世界への所属の仕方とアイデンティティを巡る深い経験の記述という意味で特に「エグジログラフィー(Exilography)」と呼ぶ。Exile(亡命)+Graphy(記述)。このエグジログラフィに関しては長年エグジログラフィの翻訳や批評に携わって来た菅啓次郎さんの話を聞くのが良い。書籍としては『コヨーテ読書』(青土社)が示唆に満ち満ちていてよい。

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

ここではウェブ上の記録にリンクしておきたい。

  • 異質な世界との衝突の意味、「世界」そのものの複数性をよく考え、それを自 分にとって不自由を強いられる言葉で手探りで綴ったのが、かれらの文学だ。これを 「エグジログラフィー」(エグザイルの記述)と呼ぶことにしよう。

「「英語」という犬を道連れに」http://www.cafecreole.net/library/dog.html

  • 移民の記憶の書(エグジログラフィー)

「破片と図柄」http://www.cafecreole.net/library/coyote12.html

  • 現代における一般エグジログラフィ(移民・亡命といった経験の記述)

ピジンと文学」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/17_1/083-94_suga.pdf

私の理解した限りでは、そのようなエグジログラフィーを読むことは、私たちの日々の体験を深く捉え返すことに繋がる。なぜなら私たちはみな所属にともなう安定と束縛の葛藤のなかで生きていて、移民や亡命者はその極限を生きる者たちだからである。有り体に言えば、世界が大きく変化しつつあるときに、現在所属する組織への過度の帰属は、変化への対応を遅らせ、場合によっては、組織と心中することにもなりかねない。何が起こっても、個人として生き抜いていける思想と知恵を身につけることは急務といえるだろう。

エグジログラフィを読むことで私たちは結局は何を目指し、何を学ぶことになるのか。この重要なポイントについても、菅さんの言うことに耳を傾けよう。以下の引用はすべて次のコラムからである。
「Two Home Islands」http://www.cafecreole.net/library/coyote3.html


驚くべきことに、エグジログラフィは「シヴィリティ(礼儀正さ)」と深く関係する。ただし、「新たなシヴィリティ」である。

エグジログラフィを読むことによって、われわれは集合的に、ある新しいシヴィリティを探っているのだ、と。シヴィリティ。丁寧さ、礼節、市民性、公民性。それ自体ははかなく、いかにも頼りない言葉だ。ぼくがいおうとしているのは、ただ一つの、そうと決めてしまえば他の所属可能性を排除することになるような固い所属の仕方の、対極にあるものだ。このシヴィリティとは、ある国籍への所属を前提として語られる国際主義とは、異なっている。もちろん、今日の世界でわれわれは国籍をさっさと離脱するわけにはゆかないし、国家によってしばられあるいは守られ、国家単位の社会の中になんらかのかたちで住みこむという生き方を捨てることもできない。しかしそうした国家主義+国際主義の世界に重ね描きされた、突発的な出会いと葛藤の現実を、われわれの多くはいたるところで実際に生きている。

このような「新たなシヴィリティ」が従来の「コスモポリタニズム」と決定的に異なるのは、前者のより深い「非所属性」の故である。

コスモポリタニズムという用語は、すでにあまりに色褪せてしまった。それはきわめて堅固な「私」が、普遍的で惑星的で避けがたく抽象的な、一個の「都市」に所属すると主張する。その惑星的都市−−ぼくの呼び方でいえばエキュメノポリス−−を背後から支えているのは、いうまでもなく世界化した資本=物質=情報流通だ。コスモポリタニズムという用語を避けてぼくがそれを「新たなシヴィリティ」と呼ぶのは、それが個々 の一回かぎりの状況の中で、その場で、異邦人どうしの交渉の中で、探られなくてはならないからだ。

そして、さらに驚くべきことに、「新たなシヴィリティ」は古くて新しい「ホスピタリティの原則」に深く繋がっていた。

それをホスピタリティの原則といってもいい。人をうけいれること、手をさしのべること、手を貸すことといった、大昔からそう口にすることすらなく行う人は行ってきた何かは、現代の世界で、いよいよ大きな可能性と重大な責務をもつ。そうした原則の発芽を人の中に育てるのは、異質の隣人たちの生きてきた過去をうかがうこと以外にはない。

そのために、菅さんはこれまでにも大量のエグジログラフィを翻訳し、批評的に吸収してきたのだった。

エグジログラフィの翻訳者としてのぼくの作業に意味を求めるとしたら、それは異質なさまざまな声を「自国語」の中に反響させ、声の担い手たちの生の軌跡を、ある新しいシヴィリティのための、テクスチュアルな基礎へと織り上げてゆくこと以外にはない。このテクスチュアルな土台にふれるためには、だれもが自分の伝記や国家的・民族的おいたちの枠からわずかに踏みだして、その踏みだした素足に思い切って体重をかけてみなくてはならない。その土台がきみを支えてくれるという保証は、まるでない。けれどもその危険な賭けによってはじめて、われわれは集合的に、「何一つ共有 しない者たちの共同体」(アルフォンソ・リンギス)のための、いままさに出現しつつある倫理を探ることができるのだ。

やや唐突に登場する「何一つ共有しない者たちの共同体」(アルフォンソ・リンギス)という言葉は私の中では昨日書いた「縁もゆかりもない他人同士が心の隙間を埋めあって、家族になる」という言葉に正確に重なる。文学における世界認識の最先端の問題は実は身近すぎる家族という共同体の本質的問題にも繋がっている。

何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体

まるで落ち穂拾いのように

片岡義男著『ラハイナまで来た理由』(同文書院)に「まるで落ち穂拾いのように」と題された印象的な掌編がある。
それは、ハワイの日系社会、ホノルルの戦後の日系社会、最盛期は1945年から1955年までの十年間、その後、1960年代までは、目に見える具体的な形で機能していたという社会が消えていく様を象徴的に描いたものである。その日系社会は、

多くの一世たちがまだ存命で、二世の人たちがちょうど働き盛りの年齢だった時代。ハワイという固有の場所で、アメリカのものと日系のものとが、ちょうどいい配合で重なり合い、融合していた時代。そしてそこに、ハワイの風味が絶妙に効いていて。ほんとによかったわ、あの時代は。
(197頁)

と「僕」の姉が語るような「時代」だった。

そしてその社会=時代はどのように消えていくか。

人は他界していく。音声を永遠に発しなくなる。言葉が消える。ひとり、またひとり、このようにして音声による言葉が消えていく。言葉によって作られていたものすべてが、ともに消えていく。
(198-199頁)

これを読んだ時、私は他界した父母、祖父母、叔父とともにあったときの世界は、たしかに彼らの声=言葉によって作られていたような気がした。彼らが写っている写真を見る度に、彼らの声が蘇る。いつ私に呼びかけるかわからない声が行き交う世界で私は私の土台を作ったような気がする。変な言い方だが、私は彼らに呼びかけられうる存在として、彼らの声が谺する見えない器のような場所に見えない根をおろしていたのではないか、と思った。