美は乱調にあり

非常に示唆に富むmmpoloさんの佐間敏宏論http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20070302/1172784378を読んで、いろいろ考えた。

まず「美は乱調にあり」という言葉を思いだした。これは瀬戸内晴美(現、寂聴)の伊藤野枝の生涯を描いた作品『美は乱調にあり』(文藝春秋、1966)*1で有名になったが*2 、そのタイトルは、もともと、美学志向も強かったらしい大正時代のアナキスト大杉栄の「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」という言葉に由来する。

しかし哲学者のフランシス・ベイコンがたしか同じ内容のことを言ってたことを思い出して、調べてみたら、あった。

There is no excellent beauty, that hath not some strangeness in the proportion.

1597年初版のThe Essays(http://www.uoregon.edu/~rbear/bacon.html)の中のOf Beauty(http://www.uoregon.edu/~rbear/bacon.html#43)の言葉。大杉栄の言葉のルーツは、これではないかと推測する。

西欧の伝統的な美意識には黄金比(Golden Ratio)に起源する「プロポーション」の観念がある。今でもモデルのように均整のとれた体や整った顔立ちの「美しさ」には、そのような「理想的比率」の観念が根強く継承されている。ベイコンの考えはしかし、それは美しすぎて、近寄り難くて、魅力を感じない。むしろ「プロポーション」がちょっと乱れたり、歪んだり、傾いたり(some strangeness)しているところにこそ、本当の美(excellent beauty)がある、という考えだ。

作間敏宏=mmpoloさんの考えは、このようなベイコン=大杉=瀬戸内の考えとは根本的に異なる。そもそも理想的なプロポーションを前提にしない。あくまで具体的な個性群から出発する。独自の手法で顔や人体の個性豊かな表情群からそれらの統計的平均や標準といった概念に到達した作間氏は、そこから逆に個性なるものの意味を再発見する。すなわち、そのような「平均」や「標準」からの逸脱こそが、「個性」=「本当の美」=「魅力」であり、さらには「エロティシズム」を生み出す、という。

この考え方にはややポルノグラフィとエロティシズムの混同がみられると思われるが*3、それは瑣末なことで、この国では、エロス=生の充溢=多様性を疎外する平均や標準という仮死の祭典あるいは呪縛が強力に働いているから、作間敏宏=mmpoloさんの思想は大いに顕揚されるべきである。

*1:英訳本"Beauty in Disarray"がSanford Goldstein社から2000年に出版された。

*2:この言葉が使われた例として、最近では、備仲 臣道 著『美は乱調にあり、生は無頼にあり―幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社、2006)がある。

*3:あるいは、フェティシズムとの関連や、精神分析学の観点からは、「リビドー(欲動)」との関連が問題視されるだろう。