言葉の家:決して焼失しないもの

自宅が全焼して、着の身着のまま命からがら脱出し、ホテルに仮住まいしながら、毎日、重傷を負った奥さんを集中治療室に見舞い、火事現場の処理に負われている私の恩師、工藤正廣さんの心中は計り知れなかった。電話の向こうから聞こえる声は明るく元気そうだった。「ある意味で、さっぱりしたよ。」と工藤さんは笑いながら言った。

工藤正廣さんは今後の仕事のための資料はもとより、思い出の縁(よすが)となる物を家ごとすべて失った。家は人の住処であると同時に記憶の住処でもある。失うことによって得るものがある、と他人は軽々しくは言えない喪失だと思った。どんな物も当人が生きていてはじめてなんぼの物だとはいえ、生きている限り、それまで自分の体の延長、一部のように感じていたはずの物たちが突然すべて焼失した後の喪失感、心の穴は簡単には埋めることはできないと思う。心と物は分けられないからだ。記憶は頭の中にだけあるのではない。大事にしていた物、大切にしていた物、愛着を抱いていた物、いつも触れていた物、いつもみていた物たちにも記憶は宿るからだ。

しかし、小学2年生のときに、同じように焼け出され、一家散り散りの生活を余儀なくされた体験についても工藤正廣さんは語ってくれた。「だから、こんなことは大したことじゃない。またか、ってなもんだ。」その言葉には自分を鼓舞する、自分で自分を励まそうとする、強い気合いを感じずにはいられなかったが、それと同時に、本当に必要なのは、こうして物理的に失うことがありうる物ではないんだ、という強い信念のような思想をも感じた。

私は、どんな悲劇的な状況に置かれようが、人生の正解としての、心のベクトルを向けるべき「楽観主義的」な、あるいは「喜劇的」な方向ははっきりしていると考えている。しかし、実際に不慮の事故によって傷つき、大きな穴の空いた生きた心を即座にそうすることなんかできるわけがない。時間が、手続きが、必要だ。工藤正廣さんの悲劇の報に接して以来ずっと、そうするにはどれほどの時間、どれほどの心の中の手続きが必要だろうかと考えていた。もちろん、物理的な長さや数が問題なのではない。深さと質の問題である。

受話器から聞こえてくる工藤正廣さんの飄々とした声にわずか数日で深い時間をくぐり抜け、心の中の手続きを済ませた後の透明な清々しさを感じさせられた。やはり、言葉を住処、故郷としてきた人は強い、と改めて痛感した。工藤正廣さんとの電話での会話を思い出していると、「言葉の家」という言葉が浮かんできた。決して焼失しない言葉の家を工藤正廣さんはちゃんと持っている人なんだ。

晴れよう時 1956‐1959―ボリース・パステルナーク詩集

晴れよう時 1956‐1959―ボリース・パステルナーク詩集

ヒメオドリコソウ(姫踊り子草, Lamium purpureum)だった


このなかなか同定できなかった植物は、ヒメオドリコソウではないか、とyukioinoさん(id:yukioino)が教えてくださった。早速調べてみたら、確かにそうだった。葉がミント系の葉を連想させたので「ハーブ系」と書いたが、「ハーブ」という分類はかなり曖昧なものなので、シソ科の仲間だから、ハーブ系でもあながち間違いではなかった。ヒメオドリコソウ(Lamium purpureum, Red deadnettle)。「姫踊り子草」という命名は、同属のオドリコソウ(Lamium album var. barbatum)より小さいという意味の「姫」に由来するという。またどちらも、花序が環状に並ぶ様子を踊り子が並んで踊るさまに喩えたらしい。一般には、道端の雑草扱いのようだが、「踊り子」を連想して命名した人の想像力の豊かさには感心する。見る度に、不思議な花のつき方だな、と感じていたが、「踊り子」たちと言われると妙に納得してしまった。

ナズナ(薺)だった

札幌、晴れのち曇り。暖かい。

藻岩山はすっきりと見えた。

家を出てすぐ、昨日開花したばかりだった近所の桜、エゾヤマザクラの花の広がりが目に飛び込んできた。

町内には庭にツツジ(Ericaceae, Heath family)を植栽しているお家が少なくない。

エゾムラサキツツジ(Rhododendron dauricum, Arctic Pearl)の深い紫の色が目につく。

そしてその変種らしいシロバナトキワツツジの白い色とのコントラストも目をひく。

さらにレンギョウ(連翹, Forsythia suspensa, Golden Bells)の黄色の印象がそこに加わる。


原生林の中でも桜が咲き始めた。三本の若木だった。白樺にも若葉が出始めた。ヤナギ系(Salicaceae, Salix)の大きな樹々の若葉も目立つようになり、原生林に新緑が広がり始めた。

道端で、フキノトウ(Fuki, Giant Butterbur)、クルマバソウ(Asperula odorata)、ツクシ(Equisetum arvense, Field Horsetail)のトリオが目に入った。

タンポポ公園のエゾノコリンゴ(Malus baccata var. mandshurica)も若葉に被われていた。

昨日開いた(Prunus mume, Ume)の花をよく見てみた。

サフラン公園のハクモクレン(Magnolia heptapeta)。花に重量感がある。花弁が肉厚。

トウモロコシ畑の隅っこのルリカラクサ(nemophilia)の一群の中で、ハコベ(Stellaria)が咲いていた。

セイヨウワサビかオランダガラシ(クレソン)かと一人で騒いでいたこの植物は、同じアブラナ科でも、ナズナ(Capsella bursa-pastoris, Shepherd's purse)のようだ。あの芭蕉「よく見れば/薺花さく/垣根かな」と詠ったナズナ

こうして見ても、キタコブシ(Magnolia praecocissima var. borealis)の花はハクモクレンの花とは異質だ。

キタコブシを植栽しているお宅の庭で、桜の若木が花を咲かせていた。

見知らぬ木の芽、蕾。

町内を一周し、自宅すぐそばのエゾヤマザクラ(Prunus sargentii)の下まで戻ってきて、見上げた。ほぼ満開の花もある。蕾もある。

数秒間「花見(cherry-blossom viewing)」を味わった。

オオマルハナバチ VS. 風太郎

朝の散歩から戻り、しばらくしてから、突然風太郎が激しく吠え出した。どうした、どうした、と風太郎の部屋を覗くと、大きな太った蜂に向かって吠えているのだった。

オオマルハナバチ(Bombus hypocrita, Bumblebee)だった。しかも二匹いる。かなり大きな羽音を立てている。外に出ようとして透明なガラスの部分にぶつかっては右往左往している。風太郎はその羽音と動きに犬的本能を刺激されているようだった。かなり興奮していた。詳しいことは知らないが、オオマルハナバチは性質が穏やかで人に向かって来たりはしないことを体験的に知っていた私は余裕しゃくしゃくとカメラと帚を持って、風太郎の部屋に入り、吠える風太郎を宥めながら、記念撮影をしてから、難なく二匹のハチを帚で出入り口まで誘導して外に出してやった。

風太郎の部屋は日中は暑くなりすぎないように出入り口の引き戸を開けっ放しにしてあるで、昆虫や先日のように野鳥などが迷い込んでくることがよくある。毎年スズメバチも入って来る。スズメバチはちょっと怖いという先入観が働くが、実際には、室内に紛れ込んで外に出られなくなった場合には、外に出ることだけで頭が一杯になってしまうのか、怯えてしまっているのか、こちらに向かってくることは過去11年間一度もなかった。

ちなみに、北海道に生息するオオマルハナバチには在来種のエゾオオマルハナバチと農業用にヨーロッパから輸入されて野生化したという外来種セイヨウオオマルハナバチとがいて、専門家の間では、生態系の破壊などが問題視されていることを初めて知った。

風太郎が戦ったオオマルハナバチはどっちなのか、あるいはハイブリッドなのか、分からない。それぞれの代表的な写真を見る限り、どちらとも色の線の入り方が違うように見える。

入れ違いのハプニングHappening of passing each other:365Films by Jonas Mekas

気づいた方もおられるだろうが、昨日紹介したフィルムは実は今日の分だった。ジョン・ゾーンコブラ、パート2にしては、変だなあと思いつつ、無理な解釈を書いた。今日になって、昨日見たフィルムが今日の日付になっていて、昨日の日付には、昨日はなかったジョン・ゾーンが写るサムネイル写真が掲載されていて、キツネにつままれた気分になった。

これが私の妄想ではない証拠には、昨日のサムネイル写真には今日の日付"May 5"が入っている。これはメカスの意図的なハプニングの演出なのか、それとも編集スタッフの単純なミス、すなわち真性のハプニングなのか、どちらなのかは分からない。私だけがまんまとひっかかったのかもしれない。でも、それもまたよし。面白い。笑っちゃう。

そういうわけで、私も順序を入れ替えて紹介しなおさないといけなくなった。昨日の紹介は「ハプニングの記念」に残しておこう。

Part Two of John Zorn's COBRA, again!:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、5月、124日目。


Day 124: Jonas Mekas
Friday May 4th, 2007
9 min. 51 sec.

Part Two of John
Zorn
's COBRA
(see April l6 for
Part One)

ジョン・ゾーン
コブラ、パート2
(パート1は
4月16日
見てね)

4月16日コブラのパート1に続く、パート2。会場はアンソロジー内の劇場。「指揮command」の代わりに一定のゲームの規則に従った「命令command」が書かれた紙を次々と掲げるジョン・ゾーン。それに従った楽器演奏者たちの演奏は途中から彼ら同士の間での駆け引きによって、演奏全体としては、予測不可能な、偶然に左右された展開を始める。音楽を「楽しむ」ことのひとつの極限の姿、予定調和的な音楽体験への批評そのもの、が協同で演じられる。

Poongmul by NYURI:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、5月、125日目。


Day 125: Jonas Mekas
Saturday May 5th, 2007
13 min. 08 sec.

Korean dancers
celebrate Spring
Washington Square
Park
, New York

韓国人のダンサーたち
春を祝う
ワシントン・スクウェア
パークで。

メカスがコリアン・ダンサーと大雑把に書いているのは、NYURI(New York University Rhythmic Impulse)のメンバーたちであり、韓国系の学生だけでなはない。韓国語で「世界」を意味するNYURIはニューヨーク大学を拠点とする韓国文化を教え学ぶ学生組織である。その文化的核は、プンムル(poongmul)と呼ばれる春に豊作を祈願する農民の音楽と踊りに由来する。

世界的に有名な、日本でも作家の中上健次がいたく惚れ込んだことでも知られる、超絶打楽器集団のサムルノリ(Samulnori)のルーツはプンムルに遡る。

昨日、この映像を見て、私は次のように書いた。

周囲を人垣に囲まれた公園の一角らしき場所で、韓国とアフリカの混成太鼓奏者たちと尺八によるリズミカルな演奏をバックに、総勢20人くらいのダンサーたちが、思い思いの出で立ちで登場しては、時に整然と同じ振り付けで踊り、時にばらばらな動きを見せ、時に言い争いさえ見せるという演劇的な要素も含んだパフォーマンスを繰り広げる。

前エントリーに書いたように、昨日は、「ジョン・ゾーンコブラ、パート2」という文脈で、この韓国の伝統的な音楽と舞踏のパフォーマンスを見ていたのだった。「プンムル」という文脈にそっくり入れ替えて上の文章を読んでも違和感はない。

メカス参観したのは、Poongmul.comのイベント・カレンダーから、4月27日のNYURIによる毎年恒例のパフォーマンスだと思われる。

この時期に、韓国の音楽と踊りのルーツと伝統に深い共感と理解を示す映像をアップするメカスの見識に感服した。