ENDING ENDLESS 雑記帖 @『ディズニーの隣の風景』 by 円堂都司昭

                    

2017-01-13

[]『マンハッタンの怪人』と『ファントム』

フレデリック・フォーサイス『マンハッタンの怪人』とスーザン・ケイ『ファントム』は、いずれも『オペラ座の怪人』の続編、あるいは二次創作と呼べる小説であり、共通点もある。以下で結末に触れつつ、ポイントだと感じた点をメモしておく。

『マンハッタンの怪人』は、ガストン・ルルーの原作小説以上にポピュラーなロイド=ウェバーによるミュージカル版のストーリーの続編。パリからニューヨークに渡った怪人=エリクは、富豪となっている。彼はコニーアイランドの遊園地に融資した後、オペラハウスを設ける。ただし、自分は表に出ず、陰で権力を行使する形で。

かつてはオペラ座の地下に隠れていた怪人が、今では高層のE・M・タワーの最上階に住んでいる点が、彼の階層上昇を示している。そして、力を獲得した怪人は、パリで結ばれることのなかったクリスティーヌを呼び寄せ、再び接近する。

この小説では、ロイド=ウェバー版で演出の鍵となっていたオルゴールでもあるオモチャのモンキーが、怪人とクリスティーヌを結ぶ思い出の品として効果的に使われる。オペラ座が持っていた華やかさと不気味さを、閑散期で休園中の遊園地を登場させることで引き継いでもいる。

また、怪人はクリスティーヌを再び自作オペラに出演させるだけでなく、自らも出演する。アメリカの南北戦争を題材にしたそのオペラで彼が演じるのは、顔を負傷した大尉だ(このへんの顔を隠した怪人は、『犬神家の一族』の復員兵スケキヨのようだ)。顔の醜さを、自らがいわば劇化するわけだ。

一方、現在のクリスティーヌは、かつて怪人の恋敵だったラウルと結婚しており、息子がいる。ところが、実は子どもの父は怪人だったのであり、ラウルは性的不能者だったと隠されていた真相が明かされる。この展開は唐突であり、本来は前作で完結していた物語を引き延ばすための、意外性のための意外性という印象が否めない。

しかもこの小説は、告白、手記、新聞記事、日記などの形で、章ごとに視点人物がどんどん代わる構成をとっている。そのことは効果を上げるよりも、主要人物に自身を語らせる形で心理を書くと展開の不自然さが目立ってしまうので、他人から語る部分を増やした――というような逃げにみえてしまう。

したがって、『マンハッタンの怪人』がこの形のままではミュージカルにされず、かなり改変されて『ラヴ・ネヴァー・ダイズ』として上演されたのは理解できるところだ。

ファントム〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈下〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈下〉 (扶桑社ミステリー)

一方、『ファントム』は、前半では怪人=エリックの誕生からパリに訪れるまでの前日譚を語り、後半ではルルー原作の隙間を埋め、クリスティーヌとラウルのその後にも言及する。文庫本で上下巻の長さであり冗漫な部分もみられるが、主要人物の心理は深く掘り下げられている。

エリックの父は、建築家であり音楽好きだった。母も大成はしなかったが、オペラ劇場に出られるようにと教育された過去がある。エリックの音楽嗜好、クリスティーヌへの想いには、父と母からの影響があるのだ。

エリックを妊娠中の母は、我が子がおなかを蹴ったのに対し、「誰もあなたの意見なんか聞いちゃいないんだから、この獣!」と言ってしまう。母の友人は、まだ生まれていない子のことをそんな風に言うのは縁起が悪いと不安がったが、それが的中して醜い怪人が誕生したわけだ。そのように『ファントム』には、出生の因縁めいたものが用意されている。

未亡人となった母は、あまりにも醜い息子を愛せない。仮面をかぶせられたエリックは、愛するママにキスしてもらえない。彼は、悪魔の顔と天使の声を持つ存在に育つ(『オペラ座の怪人』での彼は、怪人であると同時に音楽の天使と呼ばれた)。腹話術を覚えたエリックが、羊飼い少年の陶器の人形にハミングで歌声を与えると、母は人形のほうを可愛がった。恋人を見つけながらも息子への複雑な感情で狂っていく母。だが、エリックのほうが精神病院に入れられそうになり、彼は人形を壊して家出する。

エリックは、神父から悪魔祓いされそうにもなった。また、彼を蔑む者たちに愛犬を殺されたのだが、人間ではない犬に死後の世界は与えられないと知ってからは神まで憎んだ。醜い彼に対し、「ドン・ファン」があざけりの言葉として投げつけられたからこの名前も嫌いになった。『オペラ座の怪人』における怪人がなぜ、あのような性格になり、「勝ち誇ったドン・ジョバンニ」を作曲したか、『ファントム』はその理由を遡って創作している。

秀逸なのは、死体になった母と再会した場面。彼女が望まないのがわかっていたから、エリックは母にキスしなかった。同時になぜ、彼女から自分が拒絶されたのかも理解する。死が、母を醜くしていたからだ。つまり、怪人の容貌はまるで「死」のように醜いから、人々が忌まわしく感じるのだと同作は説明するのである。それは、『オペラ座の怪人』の仮面舞踏会でエリックが赤き死の仮面を着けていたことから逆算された解釈だろう。

エリック、ラウル、クリスティーヌの三角関係についても書きこまれている。クリスティーヌは母が死んだ年に生まれたとされ、イメージの重ねあわせが強化される。一方、2人の男の間で心が揺れ動くクリスティーヌは、ラウルを冷たくあしらったりもするのだが、彼は真面目に受けとらない。ラウルもしつこいのであって、エリックだけでなく彼までストーカー的にみえる。

何が望みかという問いを発した母にキスを望んで拒絶されたエリックは、同じように問いかけたクリスティーヌからキスを得る。『オペラ座の怪人』の怪人とクリスティーヌは互いの額に口づけしただけだが、『ファントム』のクリスティーヌは自らの意志で唇を重ね、彼の顔にキスの雨を降らせる。

『ファントム』では、エリックがオペラ座の地下に母の使っていたベッドを運び入れていた設定になっており、彼はそこで死を迎える。母に対するそんな歪んだ愛憎は、ヒチコック『サイコ』のノーマン・ベイツのマザー・コンプレックスを思い出させもする。


そして、『ファントム』は、『マンハッタンの怪人』と同じく、やがて結婚したクリスティーヌとラウルの子どもの父は、実はエリックだったという結末に至る。ルルーの原作もロイド=ウェバー版も、『オペラ座の怪人』では怪人がキスされただけで恐ろしく動揺したのだから、2人が最後の一線まで越えていたというどんでん返しと整合性がとれるのか、疑問はある。

ただ、三角関係におけるクリスティーヌの行動は、エリックに一方的につきまとわれるだけでなく、自ら近づいた面もある。彼女の態度があやふやだからこそ、3人の関係性を解釈し直す続編や二次創作が書かれもするのだ。

『マンハッタンの怪人』も『ファントム』も、すでに知られた物語の読み直しとしては、面白い観点をいろいろ含んだ作品だった。




2017-01-12

[]『王様と私

マッチョな思考に凝り固まった男の子どもを教えることになった女性が、子どもになつかれるだけでなく、最初は衝突した男とも理解しあうようになり、やがて考えかたを変えた彼と魅かれあう……。

『王様と私』(映画版1956年)と『サウンド・オブ・ミュージック』(映画版1965年)は、そんな大枠が共通している。それぞれの組みあわせは、前者がシャムの王様と英国の未亡人、後者が大佐と元修道女見習いであり、いずれもヒロインは家庭教師となったために、その家の奥へと入りこんでいく。

しかし、2作の結末には大きな違いがある。

(※以下で結末に触れる)




『サウンド・オブ・ミュージック』では、ヒロインが大佐と結婚し、家庭内の男権主義は解除されて一家に平和が訪れる。ところが、ナチスによる故国併合という暗雲が一家を取り巻き、彼らは山を登って亡命する道を選ばざるをえなくなる。

一方、『王様と私』の場合、野蛮というレッテルを貼られたシャムが英国から攻撃されるかもしれないという危機を、ヒロインの協力を得て王様は切り抜ける。二人の距離は近づき、一緒に踊ったりもする。だが、国家の近代化を目指した王様自らが、彼女の英国流教育を導入したとはいえ、2人の価値観にはなお開きがある。たくさんの夫人を娶り、多数の子どもを産ませるのが当たり前だった王様と、一夫一婦制のなかで結婚し夫を亡くしたヒロインとでは、男女それぞれの権利、恋愛や結婚に対する考えかたが違いすぎる。

王様は自分の身分に対する自信から、ヒロインはアジアの後進国よりも近代化されているという自負から、互いに上から目線になりがちである。それぞれがそのように育たざるをえなかったことを、ヒロインのほうは最後には理解し受け入れたようだが、恋愛するまでには至らない。彼女は、一度は返した指環を病床の王様から再び受けとるが、彼はそれを渡した直後に死んでしまう。ヒロインが王様の亡骸にすがりつくすぐ横では、王の座を継承する彼の息子が、今後は王に対してひざまずかなくてよいと周囲に宣言している。王様とヒロインの関係が、より近代化された新王を誕生させる礎になったと示して、物語は終る。


『王様と私』のこの結末には、『美女と野獣』において、野獣が本来の美形の王子へと姿が戻る結末を連想させるところがある。『美女と野獣』では野獣と王子は同一の存在だったのに比べ、『王様と私』は旧弊な部分を残す王様から近代化された新王への交代で、野蛮さの減衰が描かれる。ヒロインの賢さと愛が野蛮さを鎮める力になる点は、二つの物語で共通している。

『王様と私』の場合、子連れのヒロインは当初、住むための家を用意される契約だった。だが、王様は約束を破り、彼女を強引に宮殿に住まわせる。これは、恐ろしい野獣の命令によって城に住まざるをえなくなった『美女と野獣』のベルの立場と似ている。ヴィルヌーヴ夫人版のオリジナル『美女と野獣』では、賢いベルと愚かな野獣が対比されていた。その意味でもこれら2作は、物語の中心となる2人の配置が似ている。


また、『王様と私』で面白いのは、『アンクル・トムの小屋』がアジア風にアレンジされた劇中劇として挿入されること。

映画には、いかにもアメリカ人が考えたフェイクのアジア音楽が流れるが、今思えば、後の時代に書かれた坂本龍一戦場のメリークリスマス』サントラ(物語はジャワ島が舞台)は、この種のフェイク感覚を欧米市場向けにあえて継承してみせたような気がする。『戦メリ』もまた、アジアの野蛮と西洋の近代が衝突する話だった。

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『王様の私』で、野蛮さを問われるユル・ブリンナー演ずる王様は、仏教国らしく禿頭であった。一方、『地獄の黙示録』には、ベトナム戦争へ行った米軍大佐が、ジャングル奥地で原住民を支配して王国を作っていた。その狂王を演じたマーロン・ブランドが、禿頭にしていたことを思い出す。アジアの野蛮を描くにあたって禿頭はわかりやすい記号だったのだなと、『王様と私』を見直して感じた。


2016-12-30

[]ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ『オリジナル版 美女と野獣』

『美女と野獣』の歴史的にポピュラーなヴァージョンといえばボーモン夫人版であり、大幅にアレンジされたディズニー版もそれの改作とみられている。だが、『美女と野獣』の本当のオリジナルは、今回初めて完訳されたヴィルヌーヴ夫人版である。

野獣の姿にされていた王子が、ヒロインのベルに愛されたことで魔法が解け、もとの姿に戻る。ボーモン夫人によって童話に作り直され、よく知られるようになったそのストーリーは、ヴィルヌーヴ夫人版では前半を占めるにすぎない。

このオリジナル版の後半では、王子とベルの結婚に対し王子の母が身分違いだと反対したり、王子を育てた老妖精が求婚を拒絶されたために彼を野獣に変えた経緯、王子とベルに助力した良い妖精の来歴、ベルの本当の出自などが語られる。ベルの姉妹や兄弟の人数もより多い設定となっていて、ボーモン夫人版より筋立てはかなり複雑だ、そのぶん冗長な印象は否めない。物語としての力は、枝葉を切り落としたボーモン夫人版のほうが上だろう。

とはいえ、興味深いところも多い。ざっと、書き出してみる。


野獣の城には、等身大の王子の肖像画が飾られている。野獣と暮らすようになったベルの夢には毎夜、王子が登場するようになる。ベルは野獣の優しさに好感を持つ一方、ハンサムな王子にひかれていく。彼女が、野獣と王子を同一の存在だと気づいていないだけではない。王子は野獣について「あんな怪物が世の中にとって何の役に立つのです」といったりもする。野獣と王子が、いわば二重人格的な状態になっているのだ。

ジャン・コクトーは『美女と野獣』を映画化した際、ベルに恋する美青年と野獣の二役を同じ役者に演じさせた。裏表をなす人間の両面という、そうした発想のルーツをヴィルヌーヴ夫人版に見出せる。


ベルが勉強好きと設定されている点は、ディズニー版でも読者好きという形で受け継がれていた。ディズニー版では粗野なふるまいをしていた野獣も、彼女に感化されて知的な態度をとるようになっていく。

これに対しオリジナル版では、野獣は優しいけれど、老妖精の魔法のため愚かにされている。だから、ベルは「楽しい会話で姿の欠点を埋め合わせることもできない相手を夫になんて」などと思う。野獣が知性という武器を持てないぶん、愛することへのハードルが、ディズニー版以上に高いのだ。その点で、作品として人々に問うているテーマにもやや違いがある。


オリジナル版では、王子が野獣にされしたという秘密を知った家臣たちを、妖精が彫像に変えてしまう。この点は、コクトー版で城の調度品や飾りの一部が人体でできていたこと、ディズニー版で王子の家臣が食器や家具に変身させられていたことにつながる。

オリジナル版では、広い城で一人暮らし状態になったベルに対し、動物たちが相手をしていた。ディズニー版における家具たちのにぎやかさは、それに通じる面もある。


また、城のなかには光学技術によって様々な場所を映し出す窓(まるでテレビだ)があり、ベルを楽しませる。窓はオペラ座を見せもする。『美女と野獣』と同じく『オペラ座の怪人』が、醜いものによる美女の軟禁物語だったことを思い出すと味わい深い。そして、城でのベルの生活を、実は透明になった王子が見ていたのだった。ここには、監視者、ストーカー的な属性もうかがえる。

ベルのためにつくす野獣は、彼女に向って「幸せになるために何が足りないんですか」といいつのったりもする。自分の思いを相手に押しつけようとするのだ。このシチュエーションをアレンジすれば、ジョン・ファウルズ『コレクター』になるだろう。ウィリアム・ワイラー監督で映画化もされたその小説は、誘拐した女性を監禁しておきながら、性的関係を強要するのでもなく、相手から愛情を得ようと、自分の理屈で不毛な対話をする内容だった。同作では女性は死んでしまい、男が次の相手を探そうとするところで終わってしまう。

『美女と野獣』の物語は、そのような現代にも通じる、恋愛における歪みの元型(アーキタイプ)を表現してもいたのだった。


様々な形で幾度も語り直されてきた『美女と野獣』の1980年代までの系譜(ディズニー版以前)については、ベッツィ・ハーン『美女と野獣 テクストとイメージの変遷』が詳しい。そこでも指摘されているが、『美女と野獣』の物語の元型は、アプレイウス『黄金のロバ』のプシュケーの挿話に見出せる。

『美女と野獣』では父の身代わりとしてベルが野獣の城に行く。野獣はあまり姿を現さず、彼女は一人暮らしに近い状態に置かれる。そして、家族ともう一度だけ会いたいと野獣に懇願して認められる。

一方、プシュケーの物語では、美しいのに夫になる人が現れない娘の将来を心配し、父が神からの託宣を受けた結果、「人間の胤から出たものではない蝮のような悪い男」と結婚せよといわれてしまう。プシュケーは宮殿で形のない声にかしづかれ、不自由のない生活を送る。夫は夜にやって来たが、姿は見えないままだった。寂しくなったプシュケーは、夫に頼んで姉に会わせてもらう。

プシュケーが夫の姿を見てしまったことから事態は動くのだが、彼の正体は愛の神クピードー(キューピッド、アモール)だった。つまり人と神のペアであり、『美女と野獣』のごとき異類婚姻譚の先駆けだった。

そんな風に昔からある設定が、何度もアレンジを繰り返され、来春にはディズニー版『美女と野獣』の実写版まで公開されるのだった。この物語としての生命力の強さには、驚いてしまう。

美女と野獣 (角川文庫)

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美女と野獣 [DVD]

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コレクター (上) (白水Uブックス (60))

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  • 最近の自分の仕事
    • 「『オペラ座の怪人』のキス」 → 探偵小説研究会編著「CRITICA」vol.11
    • 布袋寅泰が世界に立ち向かい続ける理由ーー35周年ツアーで見せた洋楽ルーツと意地 http://realsound.jp/2016/12/post-10448.html
    • 周木律著『双孔堂の殺人』の文庫解説
    • 日本推理作家協会編『殺意の隘路』の序文/日本推理作家協会編『悪意の迷路』と『殺意の隘路』の収録作選考を西上心太氏とともに担当
    • 国内3位、15位、16位のレビュー、2001年版と2002年版のレビュー → 探偵小説研究会編著『2017本格ミステリ・ベスト10』
    • 『SMAP 006 SEXY SIX』、『SMAP 012 VIVA AMIGOS!』、『SMAP 014 S map』のレビュー → 『別冊宝島2533号 ありがとう! SMAP』
    • バンドが亡びそうで亡びないとき http://hon.bunshun.jp/articles/-/5466 (『バンド臨終図巻』を増補改訂のうえで文庫化した際に割愛した親本のコラムのアップ
双孔堂の殺人 ~Double Torus~ (講談社文庫)

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殺意の隘路 最新ベスト・ミステリー

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2017本格ミステリ・ベスト10

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ありがとう! SMAP (別冊宝島 2533)

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2016-12-01

[]『君の名は。』の口噛み酒と真実の愛のキス

ディズニーアニメに代表されるように、主人公たちが危機的状況に陥るが、真実の愛のキスによって奇跡が起きるという物語の定番がある。死から蘇るというのが奇跡の典型であり、それはキスが息を吹き込む=命を吹き込むことを暗示する象徴的な行為だからだろう。逆に、命を吸いとるという意味で、キスが死と結びついている物語もある。『ウンディーネ』、『サロメ』、『エリザベート』などがそう。


『君の名は。』の場合、男女の心が入れ替わり、しかも二人がすれ違い続ける物語になっている。途中で対面する場面はあるものの、ほんのわずかな時間でしかない。また、最後に再会したとたん、物語は終わる。この映画にキス・シーンはない。

しかし、それに相当するシーンはある。瀧が三葉の口噛み酒を飲むシーンだ。その行為によって彼は、死んだはずの三葉と会うきっかけをうる。神事として三葉が作った口噛み酒は、物語展開における働きとして、真実の愛のキスを代替するものとなっている。

君の名は。 忘れたくない名台詞 31日万年日めくり 2017カレンダー 壁掛け


  • 最近の自分の仕事
    • 「夜明けの紅い音楽箱」(今回とりあげたのは鯨統一郎『ベルサイユの秘密 女子大生桜川東子の推理』) → 「ジャーロ」No.58

ジャーロ No. 58

    • 『バンド臨終図巻』の文庫版、刊行されました↓

2016-11-25

[]『シン・ゴジラ』とスクラップ&ビルド

『シン・ゴジラ』では、映画の終わり近くに「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた」というセリフが出てくる。あのセリフは感慨深かった。昨年夏に刊行した『戦後サブカル年代記 日本人が愛した「終末」と「再生」』で「ゴジラ」シリーズにも言及したが、同書のキーワードの一つが「スクラップ&ビルド」だったからだ。

この本を出した翌月、『シン・ゴジラ』のエキストラ撮影に参加した。私は、ビルから怪獣上陸を見物しているサラリーマンたちの1人。その時は、みんながよく知っているフォルムのゴジラを見ているんだと思っていた。ところが、実際に映画を見たら、相手があんな姿をしている蒲田くんだったから、どえらく驚いた……。事前に知らされてたら、もっと大きなリアクションしてたよ。


  • 最近の自分の仕事
    • 同級生の死の分岐点を探る青春ミステリ『分かれ道ノストラダムス』深緑野分 http://www.bookbang.jp/review/article/520429 (「小説宝石」11月号掲載書評の転載)
    • 2016年総括 国内 → 「ハヤカワミステリマガジン」1月号 特集 ミステリが読みたい! 2017年版
    • 『シン・ゴジラ』の音楽 伊福部昭のモノラル音源と鷺巣詩郎の合唱曲  → 「ユリイカ」12月臨時増刊号 総特集Ω『シン・ゴジラ』とはなにか

ユリイカ 2016年12月臨時増刊号 総特集◎『シン・ゴジラ』とはなにか戦後サブカル年代記 -日本人が愛した「終末」と「再生」-