2011-12-23
■[YC]『リトル・ピープルの時代』、『ドーン』、『一般意志2.0』
(『ゼロ年代の論点』その後のメモ2)
私が『ゼロ年代の論点』を書いている頃にはまだ東浩紀と友好関係にあった宇野常寛が、結果的に東と決別した後に刊行したのが『リトル・ピープルの時代』だった。
『「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』に私が寄稿したディストピア小説論「悪しき統治を想像する」では、オーウェル『一九八四年』も論じた関係で、同作を意識して執筆された村上春樹『1Q84』、村上の同作を論じた『リトル・ピープルの時代』にもわずかだが言及した。
『リトル・ピープルの時代』では帯に記されている通り、「〈虚構の時代〉から〈拡張現実の時代〉へ」が一つのテーマになっていた。それに対し、「悪しき統治を想像する」では、震災後の状況に対しては〈拡張現実〉という言葉以上に、平野啓一郎が未来小説『ドーン』でAR( Augmented Reality)の訳として使った造語〈添加現実〉のほうが、語感としてしっくりくると述べた(なぜかは『「統治」を創造する』を読んでほしい)。
『リトル・ピープルの時代』に関しても、「革命ではなくハッキングすることで世界を変化させていく〈拡張現実の時代〉」という宇野のテーマ設定は、〈拡張現実〉の語を〈添加現実〉に脳内変換したほうが、現実に働きかけていく能動性をよりイメージしやすくなると思う。私はそのように読んだ。
「悪しき統治を想像する」もそうだが、『「統治」を創造する』という西田亮介・塚越健司編の共著は、全体として東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』の議論も視野に入れ刺激も受けて書かれている(上の書影のように『「統治」を創造する』帯には同氏の推薦文もある)。
民主主義と情報技術の関係について『一般意志2.0』で自らの夢を語った東と、情報技術から生まれた〈拡張現実〉をキー概念にして社会を論じようとした宇野にはテーマのうえで接点があったはずだが、最近のツイッターでの2人のやりとりを見ると感情的な齟齬もあるようで不毛な平行線に陥っている。その点は、残念。
2011-12-22
■[YC][topos]『IT時代の震災と核被害』、『「統治」を創造する』
- 最近自分が書いたもの
- 「地域社会とウェブ・コミュニティ@浦安――震災で結びついたリアルとネット」 → 『IT時代の震災と核被害』 http://www.impressjapan.jp/books/3114
- 第3部:もう一度、統治を考える 第9章:「悪しき統治を想像する」 → 『「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』 http://web.sfc.keio.ac.jp/~ryosuke/tippingpoint/2011/12/post-375.html
前者は、震災直後、市内の広域で液状化被害の起きた浦安でネットがどのように利用されていたか、私の目から見た記録。
後者は、ザミャーチン『われら』、ハックスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『一九八四年』というディストピア小説の古典、平野啓一郎『ドーン』、伊藤計劃『虐殺機関』『ハーモニー』という近年の未来小説、SF小説を通して「統治」のイメージの変遷を論じたもの。
2つの文章はスタイルがまるで違っているが、行政とネットの関係を扱っている点では、今年、私が書いた原稿のなかで対になっている。
2011-11-27
■[music] わたしの「Music For Dishwashing」
12月11日、荻窪ベルベットサンで、こんな話↓します。
「生活考察Presents
わたしの「Music For Dishwashing」
あるいは生活上のさまざまな場面におけるBGM考察」
OPEN18:00 START18:30
CHARGE¥2000(w/1D)
Music For Dishwashing ――それは、皿洗いをする時のバックグラウンド・ミュージックである。
皿洗いに適した音楽とは? なぜLed Zeppelinは良くてThe Whoはダメなのか? 労働と音楽との関係は? 近現代化に伴う変化がBGMに与えた影響とは?人気の評論家&音楽家が、「皿洗い音楽」を起点に、生活と音楽の関係に迫ります。キッチンから転がり出た議論は、放談の嵐を抜け、果たしてどこに辿り着くのか? 稀代のBGM考察トーク、お見逃しなく!
出演:
円堂都司昭(文芸・音楽評論家)
栗原裕一郎(評論家)
蓮沼執太(音楽家)
生活考察とは?
「生活と想像力をめぐる雑誌」を標榜し、2010年に創刊。ちょっと脱臼気味のライフスタイル・マガジン、とでも申しましょうか。年明けにVol.03を発行予定(編集発行人・辻本力)。
予約はこちら。
2011-11-15
■[YC][topos]北田暁大『増補 広告都市・東京 その誕生と死』
(『ゼロ年代の論点』その後のメモ1)
僕が、過去10年ほどの批評のガイドである『ゼロ年代の論点』を2月半ばに刊行してから約9ヵ月が過ぎた。その後、同書で触れた本が文庫化されたり、言及した書き手の新刊が発売されたりといったことが当然、いろいろ起きている。なので、そうした動きについて時間があるときにメモしていきたいと思う。
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- 作者: 北田暁大
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/07/08
- メディア: 文庫
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『広告都市・東京 その誕生と死』(2002年)は、街を広告化する手法、テーマパーク的な手法がどのような時代的変遷をたどったかを追った都市論だった。今年7月に刊行されたその文庫版の最後には「補遺 あるいは続編のためのノート――終わりなき日常の憂鬱」と題された章が増補されていた。
北田暁大は、「補遺」の草稿は2007年夏頃に書いたとあとがきで記しているし、それを大幅に修正することはしていないようだ。都市論にとって3・11の東日本大震災は大きなインパクトを与えたはずだが、活字になった「補遺」を読んでもこの大災害は直接的には反映されていない。
しかし、この「補遺」は著者自身が意図していなかったとしても、結果的に震災“前/後”の段差に対応したものになっている――かのように読める。
『広告都市・東京』の第1章は、超巨大なスタジオセットの世界で育てられ生かされてきた男が主人公の映画『トゥルーマン・ショー』(1998年)を論じた内容だった。映画の舞台となる海沿いの書割の街「シーヘヴン」は、2001年開業の東京ディズニーシーを先どりしたようなテーマパーク的な場所だった。
これに対し、文庫版で付け加えられた「補遺」は、映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』を論じていた。同映画は、昭和レトロなテーマパークに洗脳されてしまった父母たちをとり戻すため、しんのすけが父ひろしの靴を脱がせ自分の足の臭いをかがせることで、夢から醒めさせるストーリーだった。
一方、今年の大震災では、ディズニーの施設には大きな被害はなかったものの、周辺の舞浜、新浦安一帯では地面が液状化して泥が噴き出した。このあたりは、かつて漁民が生活の糧としていた海を埋め立てた場所であり、現れた泥には磯臭さも感じられた。また、周辺の小奇麗な戸建て住宅街、マンション街では下水道がダメージを受け、用を足せない、水洗トイレが逆流するといった臭いを伴う被害が頻出した。
東日本大震災では大津波や原発事故をはじめとして、安心していた風景の裂け目から忘れていた過去や現実、臭い、恐ろしさなどが様々な形で襲ってきたわけで、液状化もその一例。
東京ディズニーリゾートを中心に舞浜、新浦安というデオドラント化されよく作られた風景で暮らしてきた人々が、臭いに逆襲されたのだ。外部を排除した空間「シーヘヴン」から始まり、足の臭いという現実が登場して終わる『増補 広告都市・東京』の構成は、そんな震災“前/後”の現実と対応しているように読める。
北田は『広告都市・東京』の本格的な続編を書きあぐねているようだが、この「対応」を次の論考への出発点にしてもらいたいと期待している。






