ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『非選抜アイドル』と峯岸みなみの坊主謝罪

エンタメ小説進化論 “今”が読める作品案内』は、エンタテインメントに関連した小説以外の事象と小説を(編集者のむちゃぶりに応じて)、次々に同時に論じていくというルールで執筆した文芸評論である。
同書ではAKB48についてもとりあげており、そこで特に注目したのが、仲谷明香『非選抜アイドル』だった。ご存知の通り、このグループは、メディアに登場できるメンバーをファン投票で選抜する総選挙を行っている。だが、姉妹グループも増え、所属メンバーの人数が多くなるなかで、メディアにたびたび登場できるのはごく一部に限られる。それに対し、非選抜組の常連だった仲谷が自らの立場の意義を語り、ヒットしたのが『非選抜アイドル』という新書だった。

非選抜アイドル (小学館101新書)
 人が競争するのは、勝者に独特の輝きや価値をもたらすためだと思う。(中略)
 だから、アイドルが輝きや価値を持つためには、競争に打ち勝つことが不可欠なのだけれど、そこに欠かせないのが、その勝者に敗れる敗者という役割なのである。正々堂々と戦って、華々しく散っていく、競争相手が必要となるのだ。
 だから敗者は、不要になったり、立場を追われる存在ではないのである。敗者にも、ちゃんとした居場所があるのだ。

仲谷がいうのは、過度な競争を行われている状況のなかでの、いわば慰めの理屈である。


先に話題になった峯岸みなみの坊主刈り謝罪は、この非選抜肯定論にひびを入れるものだった。良かれ悪しかれ、AKB48には恋愛禁止というルールが存在する。ルールに抵触したメンバーは、脱退や地方グループへの移籍、キャプテン辞職など、バラつきはあるが、それぞれペナルティを受けてきた。AKB48のドキュメンタリー映画が作られるたびにスキャンダル発覚と後の対応のエピソードが含まれていたし、最近公開された『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』に至っては、謝罪シーンの連続だった。
しかし、同映画制作後にルール違反が発覚した峯岸の場合、坊主になり、運営側がその痛々しい姿の動画をアップしたことで、研究生降格以上の厳しい処分を周囲が要求することはしにくい空気になった。正々堂々と戦ったわけではなく、華々しく散ったわけでもないが、立場をとことん追われることはなく、最低限の居場所は与えられたのだ。
それは、仲谷が説いた“その他大勢”の居場所の意義、ありかたに反する。坊主刈りという自傷に近い行為までした峯岸や、それを公開してしまった運営側を見て、カルトやブラック企業を連想するのは無理のないことだった。私も坊主謝罪には、強い違和感を覚えた。


とはいえ、この一件をきっかけに、AKB48というシステムに関し、声高な否定論が多く出ることにも違和感がある。1970年代には“人買い番組”と批判されたオーディション番組「スター誕生」が人気を得ていたし、芸能をめぐって商品化と人間性の軋轢は昔からのものだった。AKB48というシステムを批判する時、このグループだけが問題なのか、アイドル産業が問題なのか、芸能界全体か、さらに広げて人間の商品化か、資本主義か、あるいは体罰や体育会的なもの・ヤンキー的なものが蔓延する日本的風土のせいなのかなど、射程範囲がどの程度か、いまひとつ判然としない。
また、仲谷のいう『非選抜アイドル』は、メディア登場に関しては非選抜であっても、AKB48内に居場所がある点では選ばれていた。一方、芸能界にはAKB48を模倣したり意識したりしたAKBほど売れていないグループが多く存在しており、彼女たちはAKB外部に存在する非選抜アイドルだともいえる。
さらに、『ディズニーの隣の風景: オンステージ化する日本』で触れたことだが、各地のまちおこしがらみのご当地アイドルがAKBを意識しているだけでなく、B級グルメの祭典であるB−1グランプリの運営側も、B−1とAKBのシステム面の相似を語っている(各チームにホームグラウンドがあること、競争のイヴェント、マスコミ活用などの点を指摘できる)。その意味では、AKB48的なシステムは、外部でも様々な形で広く薄く多くの人々を巻き込んでおり、必ずしも簡単に否定できるものではないだろう。
逆にいうと、坊主謝罪的な望ましくない出来事は広く薄く発生する確率があり、『非選抜アイドル』的な慰めの理屈も広く薄く必要とされているということになる。


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