2010年7月の読書履歴

読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3287ページ


「ドーン」「甘い蜜の部屋」「歌うクジラ」と
骨太の小説が多かったため、読書冊数は少し控えめ。
8月はスペインへ旅行する予定なので、どの本を持っていくべきか
考え中。去年行ったイタリア旅行では塩野七生なぞを読んでいました。
土地土地にあった本を読むというのも乙です。

書評‐村上龍「歌うクジラ」-村上龍版「神曲」

電子書籍版のみの発行(書籍化予定あり)・価格が1500円という事で、物理的にも金銭的にもアクセスのしづらい「歌うクジラ」ipadを購入してまで読む価値はあるかというと残念ながら首を傾げるが、アクセスが出来る環境にあればぜひ読みたい一冊。何せ村上龍という超メジャーが送る、生粋の電子書籍第一弾。ボリュームも600ページ超とお徳だし、坂本龍一の音楽も流れる。そして何より電子書籍元年、この媒体が本当に「読める」ものか知るには丁度いいだろう。


本書は、「半島を出よ」ほどではないが(上下巻1000p&人物紹介20p超)それでも非常にタフな読書を要求される。なにせ舞台は2122年、ましてや不老不死の遺伝子が発見・人間の遺伝子に組み込む事が可能になったという、文化を根底からひっくり返す設定。今からは想像できない階級ごとのすみわけが完全にされている舞台やその歴史の流れを構築しながら進むので、自然読み進めるのには力がいる上に、描写の緻密さは折り紙つきの村上龍だから、押して図るべきだろう。しかし最初は読み進めるのが苦痛だったとしても、いつの間にか「新出島」「クチチュ」「無限軌道車」「宇宙エレベーター」すぐ隣にある現実になっている。


そう、冒険小説としては氏の緻密さは欠かせないのだ。SFテキな世界観ではこうしたタフな描写によって世界が世界足りえる。実際に、比喩表現が登場するのはほんのいくつか。ほとんどはディテールで世界は描かれ、ずっしりと重い手ごたえがある。なにせ作中で村上龍はこう語っているのだ。「あの子の指は芋虫みたいだ、と比喩をつぶやけば表面をなぞるだけで現実に接触しないですむ。比喩は逃避だ。」死や生や性は「死」や「生」や「性」として生のままで描かれる。


「比喩」を壮大な仕掛けとしてして飲み込むラストは、圧巻。ネタバレ乙だが、「比喩は逃避」。だからこそ、現実からの逃避「歌うクジラ」を巡る「比喩」は、さりげなく、最後にそっと明かされるのだが、この世界に重くずっしりとのしかかっている「比喩」の耐えられない軽さはぜひぜひ体験して欲しいところ。


話は変わり、電子書籍としての「読書」体験。
書体は横書き。文字の大きさは単行本ほどあり、画面の明るさもアプリ内で調整できるから、視認性は良好。読むことには困ることはなかった。ブックマーク機能はありがたかったが、全文検索機能を、もっとも欲張れば文章引用の機能が欲しいところ。せっかくの電子書籍。やるんだったら、ブックレビューを書きやすくするくらいの「粋」が欲しかった。電子書籍の「粋」には今後に期待ということで。


ちなみに僕は、通勤時間中で「歌うクジラ」を読んだ。幸いにして電車で座れるので、多少視線が気になるくらいで、当初心配していた紙の本と違う電子書籍の読みづらさは感じない。ただ立って読むには少々つらい。僕の場合、立って読む時には、つり革をつかんでいる左手を軽く曲げ、そこの部分にipadを置き、右手でさらにipadを支えながらページ繰りをしながら読んだ。ある程度の身長・手の大きさが必要だから女性には少々難儀だろう。片手でも読みすすめる事もできるが、指の力が必要。長時間だとさすがにつかれる。寄りかかりながら両手で読みたいところだ。満員電車はいわずもがなだろう。
あと「歌うクジラ」の困ったところは、曲が流れるところ。ipadで音楽聴かない&そもそもイヤホンをつけないので、油断をしている時に、不意に電車の中で音楽が鳴る。電車内では結構恥ずかしいので注意をば。正直、あってもなくても良いと思うので、イヤホンをつけない人で電車内での読書をする人は、更に目立つので音量を最小にしましょう。

書評‐平野啓一郎「ドーン」‐未来から現在への架け橋どーん!!

ドーン (100周年書き下ろし)「決壊」を読み、あれ平野啓一郎っておもしろい?となり、「ドーン」で、ああ平野啓一郎って面白いんだ、と初めて実感した。処女作「日蝕」で平野作品を挫折した人は意外に多いんじゃないかと思う。ご他聞に漏れず僕も敬遠していた口だが、そんな挫折感を取っ払ってくれる2(3)冊。


決壊 上巻決壊 下巻

2冊とも長い上に読みづらい部分もあるから、ある程度まとまった時間を取って読みたいところ。どうしても1冊というなら、個人的に「決壊」を押したいが、「平野啓一郎って読みづらい・意味分からないよね」と思っていた人には、「ドーン」がおすすめ。読み応えがありエンタテイメントにも優れている。ドーンなんて擬音の勢いだけではない、読書を十二分に堪能させてくれる。




有人火星探査機「ドーン」。2036年。ネット国家「プラネット」。分人主義。本書のイイところは、SFはSFでも「ちょっとフィクション」なところ。本書の舞台である2036年まで、あとたったの26年。そう、「ちょっと」考えれば想像充分の範囲内なのだ。例えば分人主義というキーワードだって、人との付き合い方を変える自分という、昔からあるものに、市民権を与えたに過ぎない。未来は「ちょっと」頑張って想像すれば、それは「今」へと、手繰り寄せ、置き換えることができる。



それでも、日本人は「戦争」を選んだ


歴史は、ある事象と事象の点を結びつけ、ラインを描く事。そのラインを伸ばし現在へ繋げるのが歴史を学ぶ事だと、例えば、加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」などでも、それを高校生に向けていっているけれど、本書は未来の事象と事象の点を結び、それを現在へと繋げるという逆から「今」を考えられる小説になっている。「ちょっと」フィクションのイイところだ。


歴史は過去だけではない。未来もまた歴史。「ドーン」はSF的な点から始まり、最終的には誰を大統領に選ぶか、いやこう言い換えよう、どんな生き方を人間は選ぶのか、というある意味純文学テキなという問に回帰して行く。ドーン」という小説は「未来」から「現在」へ向かう小説なのだ。明日人と今日子がどのようにして、手を結ぶのか。明日と今日のラインが通じたとき、そう、「愛は取り戻せる」のだ。
という訳で帯の煽りになる訳だが、ここが唯一残念なところ。煽り文で、ある程度ラインを制御されている、要らない親切はどーなんよと。だけどれど、エンターテイメントと純文学テキなものを結ぶ「ドーン」は小説好きなら間違えなく必読の書。

7月に入る頃には、みなさんそろそろ、『1Q84』も読み終わっているでしょうから(笑)、この夏の読書は『ドーン』ということで、ひとつよろしくお願いします!
平野啓一郎webサイト

1Q84』からもう1年。さすがにどんなに遅読な人も読み終わっている時期だろうから、腰の低い平野啓一郎のために、この夏の読書にどうぞ(笑)

書評-竹内政明「名文どろぼう」-どろぼうする技術すらも売り物になる

名文どろぼう (文春新書)


こいつは、なんてぃどろぼうさんでぃ!
まるで、かの有名な石川五右衛門みてぇじゃねえかい。




「名文どろぼう」という表題と「上手に名文を引用する技術」と書かれているから、よし名文を拝借してやろう、なんていうドロボウ根性で読み始めるかも知れないが、そういった企みの大抵はがっかりする結果で終わるだろう。そのハンザイはあまりに鮮やかな【手際】であり、目ばかり奪われ、何も盗み出せない自分を見つける事になる。


「本物」のどろぼうとは、盗んだモノの価値では決まらない。価値の高いと思われているものだって、「有名 名言」とググれば、三秒も経たずにそれっぽい情報にたどり着ける。しかしそれだけでは、ただの名言。そんなものは1億円を無人島で拾ったのと同じだ。人の目に触れて始めて価値を持つ。



そう、どろぼうこと竹内政明のスゴさとは、【手際】の鮮やかさに他ならない。名文を探す、体力と嗅覚。そして、名文と名文を繋ぐ技術があって初めてどろぼうになれるのだ。作者は朝日新聞きってのコラムニストとの事だが、場所が彼を産んだのか、彼自身の力なのか。どちらにしろ彼は立派などろぼうであり、惜しげもない【手際】のばら撒きっぷりは、石川五右衛門のようある。


という事で、晴れてどろぼうになれなかった僕は、竹内政明に頂いた名言を少しだけ、こっそりお借りだけさせて頂こう。あくまで解説があっての名文なので、これだけ取り出してしまうと、面白さは半減以上するのは必至だがしかたない。解説を切り貼りして挟むとか無粋な真似は出来ない。それをするのなら本書一冊分の文章が必要になる。
最後に表題を「名文どろぼう」とした氏の真摯さに乾杯をして、本エントリを終了とさせて頂こう。チンチン。





「かさ」
(お店やさんごっこをしていて)
これ(かさ)は
あめのおとが
よくきこえる きかいです。
〜大阪日向子 宮城・五歳




「良いお酒ですな」とヒトに感心されるようなのみかたが、あんがい静かな絶望の表現だったりする。
高橋和




ネクタイを上手に締める猿を飼う。
〜森中恵実子




<正しい変換>うまくいかない画像サイズになってしまった。
<変換のミス>馬食い家内が象サイズになってしまった。
日本漢字能力検定


感想‐唐辺葉介「暗い部屋」‐暗い部屋の窓はすでに開いている

暗い部屋死との距離の近さに目が潰れる「PSYCHE」。魂の不安を描いた傑作「犬憑きさん」。
知る人ぞ知る唐辺葉介の最新作「暗い部屋」、発禁処分を受けた本作への不安と期待の大きさといったらなかったと思うが、良くも悪くも期待を裏切る内容だったと思う。期待することなかれ。NOT SEX&VIOLENCE。物語は限りなく静謐で、あるのは、自分が自分でありたいというありふれた願い。


……とは言っても設定自体はかなり過激だ。窓をはめ殺し、10年以上も外との接触を絶ち、暗い部屋に住む母子。 その母を喪失するところから「暗い部屋」というお話が始まる。ガジェット(と言い切ってしまおう)は、ガスマスク・リストカット・近親相姦と世間から「異質」と後ろ指を差されるワードは盛りだくさん。しかしそれだけにヨダレを垂らしていると肝心のメインディッシュはいつの間にか下げられている。残るのは苦味だけ。それはあまりに勿体無い。

「ねえ、もうやめて季衣子。今お母さんはとても酷いこと言われているのよ? お願いだから、いつもの季衣ちゃんに戻って」
「私なんか何処でも何時でも酷いことばかり言われているわ! お母さんだってちょっとは苦しめばいいのよ!」
私の呪いの言葉に、お母さんは目を丸くして言葉を失うと、やがて一際大きな溜め息をつき、
「……育て方を間違えたわ」
そして頭を抑えて自分の部屋へ向かって行きました。

「わたし」が「わたし」であることの不安。
ひとりで対処できない不安だからこそ、友だちだったり、仕事だったり、家族だったりで、どうにかやり過ごす。それはどんなに歳を重ねても顔をもたげてくが、一番はじめに、「わたし」が「わたし」であるために必要な人として「親」がいる。「親」がいなければ、そもそも「わたし」なんて存在すらしない。あとはどこで子供は、彼らから手を離すかだが、手を離す前に「親」として子供に言ってはいけない言葉というものは確かにある。



八日目の蝉

「不倫相手の子供を誘拐する」内容の「八日目の蝉」という小説がある。物語は、誘拐、そして誘拐された子供のその後まで焦点が当てられているので、犯人の喜和子のその前、子供時代はそこまで大きくは扱われていないが、その中に印象的なエピソードがあった。喜和子が幼少の頃、親から「(身なりが)汚いから綺麗にしなさい」といつも言われていたというものだ。呪文のように繰り返されるそれに、喜和子がどう対抗し、この犯罪へと至ったか。詳しく語られる事はないのだが、子への毒というのはどこまでも人を歪める。それだけは確信を持って言える。

精太郎も季衣子も「親」から暴力的に手を離され、どうやって「わたし」を「わたし」にするのかという問題に立ち向かう。暗い部屋へと篭もるのか、戦うかのか、手を取り合うのか。それはプレイしてからのお楽しみだが、実はこれらの選択肢、どれも悪いものではない、という事だけ言っておこう。
しかし本作は登場人物の演出がピカイチに「ニクイ」。人物たちは絵や写真ではなく、揺らめく影としての演出は、小説では味わうことの出来ない、PCゲームならではの醍醐味だ。私という存在が溶けていきそう。空間と自分との境の曖昧さを言葉でなく、映像としてみせる。小説で無かった理由は、これだけで充分である。それとガスマスクをつけた彼女の存「在」感の異様さも付け加えて置きたい。そこから流れるように進むラストは必見。


小さな恋のメロディ [DVD]

僕は「暗い部屋」を美しい話だと思ってしまうのだが、そう感じるのはこの映画があったことが大きいかもしれない。「小さな恋のメロディ」。タイトルのとおり非常にかわいらしいお話で、「暗い部屋」とは真逆に見えるが、ラストの青空を臨む美しさはこれに通じる。ひとつ「暗い部屋」で不安があるとすれば、「小さな恋のメロディ」が3人の物語だが、「暗い部屋」は2人の物語な点。そう、意外と単純に思えるが、求める人数の問題。「わたし」が「わたし」であるために「わたし」に必要な最少人数は果たして何人なのだろうか、という話になる。

書評-湊かなえ「告白」-嘘と本当の境目をよむという事

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)これを読んで、あらためて、告白って何なんだろうと思った。




本書は「告白」の表題のとおり、前編に渡り登場人物たちの告白によって物語が進んでいく全5章立て。彼らよって語られるそれぞれの告白は、新たな告白を呼ぶ。推理小説を思わせるその驚きとハラハラとイビツさは本書を読んでのお楽しみ。本書の出来に隠れているが、文庫版に寄せられた後書き、中島哲也の「映画化に寄せて」が抜群に良い。これがあってこそ、「告白」という作品が完成したと言っても過言ではないくらい、これ、必読。





―子供たちとの話し合いの中では、何か気づかれた点はありましたか?―


子供たちって、結構言葉を信用してるんだなあと思いまいたね。「別に、この本に出てくる人間が、みんな本当のことを言っているとは限らないだろう」って言うと、

「えー!なんでですか?」って驚くんですよ。「だって、君達も嘘をつくだろう」って返したら「そりゃあ、つきますけど」って。
たくさん語る、というのは実のところある事実を自分向けに再構築するという事、身も蓋もない言い方をすると「嘘」をつくという事だ。ひとりの人が語れば語るほどに、聞き手は細心の注意を払わなければいけない。耳を澄ましながら、嘘を想像するというのは想像以上にタフな作業だからだ。ましてや表題が「告白」とあっては、中学生でなくとも騙されてしまうのは、頷ける。
嘘をつかれる、というのはムカつく事だが、嘘を見破る、というのはそれに勝る快感であるのは、名探偵でなくても感じられる事だと思う。だから本書を最大に楽しむために、ちょっと嘘に気をつけて読んでほしい。饒舌すぎるところはないか、それは何かやましい事を隠すためだからでないだろうか。大きな出来事なのにさらっと語りすぎていないか、そこにあったおおきな心の動きをあえて語らない理由はなぜなのだろうか。一方的な心情の吐露は告白では無い。嘘という毒がふんだんに混じっているのだ。


考えながら、想像しながら読むといのは、最高に面白い「読」書のひとつであり、だからこそ、本書は傑作に他ならない。書店で本を買う時は絶対に解説は読まないようにしている僕だが、これは自信をもって「解説を読んでから本書を買え!」と断言できる。本書を読む上で指針となってくれるし、極端な話、解説を読むだけで、ある一面に関しては十分元が取れてしまう(笑)




真鶴 (文春文庫)

話はちょっと変わるのだけれども、川上弘美著「真鶴」という無茶ムチャ僕好みの作品ある。これも解説が抜群に優れた稀有な作品。解説として割り当てられた僅かなページ数に、文章論・作家の比較・小説の目指すべき位置を描く非常に骨太な内容で、個人的にはこの解説のために540円を払ってもお釣りが来るほどだった。解説者の三輪太郎(当時は名前すら知ない)彼の解説の追っかけになってしまい、彼の週一の新聞連載のため定期購読をするようになった(追記:2010年7月8日にて終了)。
良い解説に恵まれた小説というのは幸せなのはもちろんだがしかし、良い小説は良い解説が付いてくるのもまた事実じゃないだろうか。

2010年6月の読書履歴

読んだ数:14冊
読んだページ数:4165p


でした。

今月はライトなSFが少し多かったです。と言っても、用語自体はかなりディープ。
どうしてもつっかかりながらの読書になりました。ライトと言われているのはキャラクター造形。
人様の言葉をお借りしますが、どうにも「涼宮ハルヒ」シリーズを彷彿させる描写は、
見る人によってはライトなSFかもしれません。僕にはハードでしたが。