狩野芳崖は10代前半から中頃で画家としておおよそ完成している。東京藝術大学美術館で見た「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」展で感じられたのはそういう事だ。ここでの「完成」とは、いわば絵を描く時の絵描きの構え、そこから生み出される線や色彩の質の事だ。江戸での狩野派の修行などは、枝葉的な手先の技巧のバリエや古典への知見の獲得に主眼があっただろうが、そういうものを経ても芳崖の幹の部分は既に動かない。自立後はモティーフの選択だけが問題で、ただ幕末から明治初期という時代においてはまさにモティーフそれ自体に「歴史」が刻まれていたのだろう。芳崖の面白さとは、その「歴史」の亀裂を、画家の腕がどのように縫い合わせていったか、その痕跡を見るときに現れる。


度肝を抜かれるのが、芳崖が15歳の時に描いた「馬関真景図巻」で、ここで芳崖は巻物、というフレームにおいて鳥瞰図を西洋的遠近法によって描いており、これが地平線まで破綻無く展開しながら水平線上はごく日本的な図柄による処理をして、全体にきちんと統一感のある構図に仕立てている。線や色彩の簡略化も含めて、おそろしくセンスが良い。長崎に近く西洋文化に触れる機会が多かったのかもしれないし、藩のお抱え絵師の子として幼い頃から専門的な訓練をしていたこともあるだろうが、それにしても、こうも無理無く古典的な日本の絵画技法と西欧的イメージの連結を果たしているのは、明治前後の日本美術において他にいない。繰り返せば芳崖の骨格はこの作品で既に組み上がっている。


鮮やかな黒の線と青い色彩が紙の白に対して新鮮で、その息づかいは闊達で自由だ。驚いたことに、この15歳の少年は圧倒的な技量、しかも古典日本絵画にヨーロッパ遠近法を無理無く接合するという魔法的な技量をふるいながら、その技法にまったく何の頓着もなく、描くことを楽しんでいる。この「描くことが楽しい」という筆致にだけ、年齢相応の幼い幸福感が込められていて、しかもそのテクニックは空前絶後なのだ。今回見た中ではおそらくこの作品がベストで、以降芳崖は技量にかまけてほとんどイラスト的な伝統図像のコピーを反復しているし、フェノロサに出会ってからはその言葉に自分を合せようとしてマニエリスティックになっている。芳崖の、絵描きとしての頂点は15歳なのではないか?「悲母観音」は、この、15歳で自らの資質の中核に達してしまった絵描きが、その不幸を乗り越えようとして迷い込んだ悲劇的幻影の極点にも見える。


「悲母観音」に見られる「歴史」には、無数の亀裂や破綻が詰め込まれている。そして、狩野芳崖のテクニックはこれらの破綻をぎりぎりのところで結び合わせ、調停している。しかし、その調停は危うく、多くの箇所で薄いメッキのように剥がれそうになっている。内部に孕まれふくれあがった矛盾のためにいまにも四散してしまいそうなガラス細工状の作品こそ絶筆「悲母観音」で、この、一見して不可思議な絵は、西洋美術の受け入れに単に失敗している作品とも、表面的に成功している作品とも異なる。この作品を分析して、含み込まれた「歴史」、すなわちキリスト教と仏教の混交や明治期に行われた近代国家という制度への美術の関わりを析出することは、相応に意義があるだろう。しかし、そういった環境の中で、なおかつ「悲母観音」の単独性は解消されない。それは多くの模倣作を生んだ事実をもってしても変わらないし、むしろそういった模倣作を見ることで強化される。芳崖の特異性は芳崖を近代日本画の祖、と見る妥当性まで疑わせる。その後の「日本画」が(退屈に)成立したとして、そこにはもはや芳崖の「悲母観音」のような異常さはない。


だとするなら、以降の「日本画」は芳崖とも「悲母観音」とも無関係に設立されたのだ。「悲母観音」には明らかに芳崖のパーソナルなオブセッションが感じられるが、そもそもそういったオブセッションそれ自体が、15歳の幕末に生きていた少年にはありえなかった事後的なもの、つまり明治という時代とフェノロサというアメリカ人によって輸入され植え付けられたものではなかったか。洗練された伝統と新しい世界の空気を踊るように遊んでいた15歳に、決定的に打ち込まれた明治維新という「歴史」。芳崖は御用絵描きという生まれつき約束された承認を奪われ、いわば自由競争的な市場に投げ出され、自らの才をその場限りの商品として売らなければならなくなる。それを掬いあげようとしたのが「近代日本美術」を接ぎ木するフェノロサだったのだけど、その要請も言うまでもなく暴力的だ。「悲母観音」は、その傷としての「歴史」に、一人の男の子が生涯の最後に向き合った痕跡に見える。そこに15歳の幸福はない。ただ、悲しい幻の母と子が浮遊している。


狩野芳崖 悲母観音への軌跡−東京藝術大学所蔵品を中心に