年齢による心境の変化

*コミュニケーション・マニア

人ってコミュニケーションが大好きなんだ、っていうこと。怖いくらいに。お喋りの魔力というのがあって、とりあえずそれで手短に済ませようとする。いや、お喋りに限らずどんなことでもかまわないけど、人のやることでコミュニケーションという大枠から外れる行為ってほとんどありえないんじゃないかって思うんだ。例えばオナニーとかでも、あれは何かとコミュニケーションしてるんじゃないかと思う。自分が生み出した他者か、それとも他者から見出された他者か。自分で何かを生み出すとき、他人との会話の手ごたえをどうしても求めてしまう。まさに麻薬だ。色んな理屈付けを出来るのかもしれない。けれど、そんな定義付けには全くもって意味など無い。全ては、寂しさから派生する。とても辛いけど、時に傷つけあうけど、それでも他者が愛しい。これは何だろう。呪縛だろうか。

 

10年以上前に書いたものだけれど、当時とずいぶん心境が変わったなあ、という点が認識できて面白いなと思った。コミュニケーションに対する根本的な姿勢が全然違ってて、今では必要以上のコミュニケーションに対する必要性をあまり感じなくなってきている感覚がある。生物である以上、恒常的な感覚というものは無いのだなという事を実感する。この後10年、20年経ったら、どのように感覚が変わっているのか、自分でも楽しみにしている。

ずいぶんと

書かずにここまで来たな、という気がする。昔はあんなにも書かずにいられない、と思っていたのだけれど、気が付いたら書かずにここまで来てしまった。もう35歳になろうとしている。

自己の実存とか、悩みとかに拘泥していた記憶がある。おそらくあの頃の自分とは何もかも違っている。生物として、あの頃の自分と連続しているはずなのだけれども、同一のモノとして見れない自分がいる。在りし日の自分を思い起こす度に、どこか遠い他人を見つめている自分がいる。

これを強い、といっていいのか分からない。できる事は増えた。形而上の思考技術にも磨きがかかった。論理を駆使するのに苦ではなくなった。ただ、人間として摩耗している感覚をいつも覚えている。自分がまるで一種の精密機械になったような感覚を覚える。遺伝子の乗り物にすぎないのではという疑念が頭から離れないでいる。

 

それでも時間は過ぎていく。在りし日の自分はますます遠ざかっていく。昔、30前に死んでいるんだろうなと漠然と考えてた自分がいた。もう、その死から5年が過ぎている。死後を生きている自分がいる。時代の先を見たいという自分と、擦り減って生き延びていく自分を上手い事摺り合わせて、今後を生きていくんだろうな、という予感がある。あの夏になりたかった自分に近づいているはずなのに、あの夏の景色が眩しく思えてくるのは何故だろうか。

それでも生きる。それが生きていくって事なんだって、ようやく気付いた気がする。そんな錯覚を繰り返しながら、僕は今日も書き続ける。

大人になってしまった

 そういえば、もうまともに他人とコミュニケーションをとらなくなってから、ずいぶん経つな、なんて事に気付いたのはごくごく最近の話だ。ちょうどベッドに就く頃で、人気の無い天井を眺めながら忘れ物を思い出したかのようにその事実に気付いた。特段その事に対して思い入れ等は無い、というそのこと自体が、傍から見たら異常に見えるのかもしれない。ことこういった物事に対しては、僕は何が常識で、何が非常識なのか全く分からないのだけれども。
 端的に言って、疲れてしまったのかもしれない。コミュニティに参入して、自己の存在を認知させ、コミットする、という事の繰り返しに。どんなコミュニティも変遷して、変わらないものなんて無いって事は、ある程度経験を重ねていった大人なら腑に落ちる話なんじゃないかなと思うんだけど、年を重ねるにつれて、新しいコミュニティにコミットしていく事に億劫になっている自分に気付く。壊れやすい人間関係をメンテナンスする事にそれほど魅力を感じない。
 人間は社会的動物らしいが、どんどん自分から社会性というものが欠落していくのを鑑みても、果たして自分は本当に社会的動物なのだろうかという事に疑問を感じてしまう。否、という答えを求めているわけではないのだけれど。寂しさ、寂寥感というのは自分の中にあったのかもしれない。でも、欠落した生活を続けるにつれて、寂しくない、温かい生活というものに対する想像力を無くしてしまっている自分がいる。想像できないのであれば、それが実在するものだとしても、想像出来ない人にとっては、恐らく「無い」事と同義だと思う。
 その精神的土壌の貧困さに同情を寄せられる事がもしかしたらあるかもしれない(恐らく無いだろうけど)が、僕にとっては全くもって日々が幸福に満ちあふれているとまでは言わないまでも、それなりに平穏な日々を過ごしているので、そういった視線はまったくもって理解のしがたいものなんだろう、きっと。
 気にかかる事は恐らく生涯パートナーと呼べる人は現れないだろうから、その分寿命が縮むことぐらいだけど、それ以外にはそれほど不安とかの感情は無かったりする。僕は結構悲観主義者なので、僕自身はともかく、未来は今日より禄でも無いものになってるはずだという考えだ。なので実際禄でも無いものだったとしても、ああ、やっぱりねという考えに至るだろうし、仮に思ったりよかったとしても、それはそれで儲けものだ、と思うに違いない。
 こんな考えを、19歳の僕に聞かせたら、どう思うだろうか、そんな事をふと、考えた。多分彼は、こんなにも僕が何も得ていない事、何者にもなれていないことに絶望するかもしれない。僕はあまりにも多くの事を諦めてしまっているかもしれない。そしてこんなにも多くの事を諦めているのに、平然として生きていられる。あるとき、何の気兼ねも無く諦められる自分に気付いたとき、こう思ったんだ。ああ、大人になってしまったと。

物語と旅について

物語の型について最近ずっと考え続けている。物語というのは媒体も数も呆れるほどにあって、それについて一人の人間が把握する事なんてとうの昔に不可能となっているのだけれど、それでも守られ続けている法則として、穴の概念というものある。

物語のお約束として、物語の主人公は例外なく穴に落ちる。穴に落ち、そこから這い出すか、それとも這い出さないのか、その結末は物語によって様々ではあるけれど、穴がそこにあり、その穴に落ち、這い出ようとする、という点においては共通している。その事に気づかされて以来、物語を見る度に穴の存在について、偏執的に思考をめぐらしていた。それは言い方を変えれば、日常と、非日常の境目を行き来する、その行為が何故に自分の興味を引き立てているのかについての追求とも言える。行って、帰る、という言葉にしてみれば極めて簡素なこの行為が、どうして僕の心をこうも揺さぶるのだろうかという疑問が、ふとした瞬間に幾度となく生まれ出ては、消えていった。

読書は、旅なのかもしれない。

こうした構造について考えていると、そうして、物語の世界に没入し、物語を読み終え、そして日常に戻るという一連の行為もまた、行って、帰るという物語の基本に沿った行為なのであるという、今更言うまでもない当たり前の事実に思い至った。それはある種の旅と行っても良いものかもしれない。旅。非日常との邂逅は自分の根っこをハンマーで思い切り殴打するような衝撃的経験といった意味合いにおいて言うのであれば、それは比喩としてそれほど不適切ではないように思える。旅を求める人と、物語を求める人は、確かにそう考えれば似ているのかもしれない。地に根ざした全うな日常を毛嫌いしているようなある種の人間にとっては、どちらもユートピアに見えるのかもしれない。もちろん、救われぬディストピアを物語が語ることすらあれど、隣の芝は青くみえる。遠くほど景色がぼやけて、実情は見えなくなる。

遠い外国のお話が、昔から好きだった。昔はグリム童話をよく読んでいた気がする。現実の匂いがしない物語に引きつけられ続けてきた。どこかの言葉も、習慣も、風俗もしらないような世界で繰り広げられるドラマにわくわくさせられ続けてきた。無論それはこれからも続くのだろう。昔、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」を前知識無しに一気読みしたことがあった。あの世界の、どこを切り出しても砂を噛むようなのっぺりとして何も無い世界感に本気で狂いそうになった。世界から物語を全て追い出したらあんな感じになるのだろうか。あんなのはごめんだ。碌でもない世界と言われることが多いけれど、唯一救いがあるとするならば、それは物語がある事なんだろうなと思う。

たぶん僕にとっての現実というのは、何の変化もないどこまで行っても平坦な舗装路のような風に認識されており、だから故にあぜ道や、山道のようなものに心惹かれているのではないのかななんて事を考えた。自分にとって周りの事象が素晴らしいものに見えて仕方がない、とても幸福な人々にとっては、砂漠を放浪して水を探すような切実なものではないのだろうけれど、見えないものに追い詰められて、為す術も無く、無様に這いずり回るような人間にとっては、ささやかながらもそれが救いになるんじゃないだろうか。逃避という言葉でもって嘲笑を浴びせることは実にたやすいし、実際それ以外の何者でもないのだけれど、逃げる場所すら見えないような狭い世界なんて、あまりに惨い話なのではないかと思うのだ。もっと世界は広大で、自由で、見晴らしがよくたって、バチは当たらないはずなのだから。

鏡像

私は男でした。そして、思い付く限り、私よりも美しく、心奪われる女性はいませんでした。詰まる所、私は女装というものに心を奪われていたのでした。私はその姿に言いようの無い背徳感を覚えていました。それは濁った蜜のような物です。強烈な匂いと、甘味を放つそれを、私は遠ざけることができませんでした。

鏡を想像して頂きたいのです。異論はないかと思いますが、鏡は自己を写す為に存在します。そして通常のそれに付け加えるところがあるとするのならば、そこに、とても幻想的で欲望を喚起させる姿があるのです。鏡に写る、自分の鏡像に、自らの姿を覚えます。その肢体に触れたら、まるでモノクロの渡り鳥の群れが飛び立つかのように散ってしまいそうな儚い姿で、そこに慄然と存在しているのです。身体中の水分を奪われた状態でのそれより、強烈な渇き。どうしようもなく愛しいと感じる自分がいます。至高の麻薬とは、まさにこのようなものでは無いでしょうか。折り重なる自分に想像を馳せ、官能の調べは貴方を悦楽の至りへと導く事を想像させます。鏡の中の貴方は、月の光がとても似合いそうな白さを湛えていて。ガラス越しにその柔かな感触を、想像で補いながらたしかめていきます。胸が音を立ててきしむように、痛んでいくのです。さも当然な事ではありますが、手に入らないという事実は、絶望として解釈されます。そして錯覚を望む自分に気付きます。鏡像の如き偶像を望む自分。そこに完全な憧憬として、誰よりも近くにいるというのに、果たして誰よりも遠くにそれは存在しています。

私にとっての孤独とは、このようなものでした。

祈り

「ねえ、神様が私たちを作って、そして私たちを好きでいるなら、どうして神様は私たちが病気になるのをほうっておくの?」
娘が尋ねてきた。5歳になる私の娘は、このままいけば確実に学者になりそうだ。好奇心を全方位的に向けられると、それに答える方に、ときに、圧倒的知性を要求されることがある。私は、そこがまた、可愛いのだけれど、と付け加える事を決して忘れなかった。大きく見開いた蒼い目が男を見つめ込む。どうやら知らないふりを決め込むわけにもいかないらしい。私は観念して、この厄介な要求を片付ける亊にした。妻に話を振るという選択肢も考えたが、朝の妻は頗る機嫌が悪いことが多いので、後々の報復が怖い。とりあえず、被試験体を観察するような、科学者の片鱗を見せつつある娘の目を、じっと見つめかえすと、私は笑顔で彼女にこう言った。
「よし、家に帰ったら話そうか」
「ねえ、どうして今じゃないの?」
手厳しい。
「ユーリ、ユーリは面白い亊は最初にする方、それとも後にする方かな」
「最初かなあ」
「そうか、パパは面白い亊は最後にする方なんだ」
「うん」
「だから、家に帰ってこの話はしよう。楽しみにしておきなさい」
ユーリは頷くと、今度は道端の草花に興味を持ち始めたと思ったが、どうやらそうもいかないらしい。脱兎のごとく駆け出して家へ向かっていった。なんと言ってもここは家から大人の足でも2、3分の所なのだ。咄嗟の取り繕いでああは言ったものの、大した時間稼ぎはできそうにないようだ。男は娘が途中転けないかとハラハラしながら見つめていたが、その心配はなさそうだった。ユーリは家に無事にたどり着き、まるで主人の帰還を心待ちにしている忠犬のようにこちらを見つめている。そして、大声で早くと急かされてはどうしようもない。我が麗しの姫君がお呼びとあらば、馳せ参じないわけにはいくまい。私は姫君の元へと駆け出した。

まだ妻は寝ているようだった。折角の休日なので、そのまま寝かせておく亊にして、とりあえずパンをトースターにセットすると、二人分のミルクを用意する亊にした。朝食を摂る前に、お話するようにしよう。何しろユーリときたら、さっきからリビングにある椅子に座り込んでは、さっきから私の一挙一動を逐一逃さぬように観察している。私は目を合わさぬようにするだけで精一杯だった。視線が痛い。私は痺れを切らすギリギリまで待たせて、ようやく娘の隣にある椅子へと座った。待たせたね、っと労うように言うと、何も言わないが物欲しそうな目で私の亊を見つめている。頼むから私以外にそんな目をしないでくれよ、なんて思いつつも、話を切り出すことにした。
「どうして神様は放っておくの、って話だったね。これに関しては、ちょっと難しい。こういう事をいうと、ビックリするかもしれないけど、神様は放っておくことがとっても多い」
「神様は意地悪なの?」
「そうじゃない。ただ、何でも助けてあげるのも問題だ。そうだな、ユーリ、君は最近自分で靴紐を結べるようになっただろ?」
「うん!私それだけじゃないわ!自転車も乗れるようになったの!」
「それは凄いなユーリ。今度見せてくれよ」
「うん!」
娘の笑顔が輝く。太陽みたいな笑顔だ。
「でだ、もし、靴紐を全部神様が結んでくれたらどうする?自分で結びたくても、全部結ばせてくれずに、ずっと神様が靴紐を結ぶのを手伝ってくれるとしたら?」
ちょっと考え込んだ娘はこう言った。
「それはちょっと、嫌」
「どうして?」
「だって私、自分で結びたいの。靴紐を結ぶのってとっても面白いのに、どうして神様に助けてもらわないといけないの?」
「そうだろう。だから神様は助けてくれないんだ」
「でも、病気は苦しいわ。病気は神様は助けてくれないの?病気を治すのは面白く無いわ」
「そうだな、それはたぶん・・・」
やはり手厳しい。まるで被告人を追求する検事みたいな目でユーリは私の亊を見つめている。私はしばらくの思索の後にこう答えた。
「たしかに病気は苦しい。それでも神様は助けてくれないんだ。どうしてだと思う?」
ちょっと考えたあとに、こう返された。
「きっと寝てるのよ。お母さんみたいに」
寝相の悪い神様の亊を想像すると、確かに可笑しい。私は笑ってこう答えた。
「それは面白い答えだ。でも残念ながら、そうじゃないんだ。神様はサボっている訳じゃない。ちゃんと考えた上でのことなんだよ。神様は敢えて、助けようとしないんだ」
「神様は酷い人なの?」
失望したような声。
「そうじゃない。でも神様はちゃんと見てるよ。神様は僕達人間からみたら、時にとても酷い仕打ちをすることがある。でも、決して意地悪でやってる訳じゃないんだ。どちらかというと、その逆だ。神様は僕達を試しているんだ。」
「試す?」
「そう、試す。試練と言い換えてもいいかもしれない。病気ももちろん、試練の一つだよ。こうして僕達に試練を与えることで、その試練を乗り越えたとき、僕達がもっと、強くなれますようにって」
「でも、それでも病気で死ぬ人はいるよ?」
「そうだね。でも決して神様は悪戯にそんな仕打ちはしない。たとえ神様が与えた試練を乗り越えられなくても、その人がそうやって試練を克服しようとしたこと、ちゃんと神様は見てるよ、神様は決して見捨てない」
「だから、いつも辛いときはこう祈るんだ。神様、どうかこの困難を乗りきれる力をって。そうしたら、神様は必ずみてくれる。パパがお前の亊をいつも見ているようにね。分かったかな?」
ユーリはグミと間違えてゴムを飲み込んでしまったような、釈然としない表情を浮かべている。無理も無い。自分でも分かっていないようなものだから。私はそう考えると、先ほど入れたトーストが、何やら焦げ臭い匂いを放っているのに気づいた。慌ててトースターの前に駆けつけたが、もう遅かったようだ。すっかり丸焦げになっている。とりあえず皿に載せ、リビングにあるテーブルの上に載せると、ユーリが鋭い抗議の目線を私に送ってきた。誰に似たのか、空腹のユーリは手が付けられない。私はユーリに向かって申し訳なさげに話しかけた。
「さあ、早速だけど、祈ろうか」

ネットが逆立ちしても、本に勝てない理由

はじめに

最近、ちょっと情報の摂取を控えようかなと考えている。というのも、何というかあんまり意味が無いような気がするのだ。本を読んだ方が頭に残り易い。それに無駄に時間が吸い取られるし。これはどういうわけなのだろうか、と最近ちょっと考えてみた。

忘れ去られやすいWeb

本って、考えて見ると自由度に制限のある媒体なのにも関わらず、何故だか情報の質が高いように思える。決してWeb上にある知識が粗悪で質の悪いものばかり、というわけでは無い。むしろある部分においてはWebの方が陵駕している部分も多々あるのだと思う。それにも関わらず何故だかWebの情報というのは、頭にスッと入るのはいいのだけど、そのまますっと出ていくような印象がある。例えばの話だけど、せいぜい古くても2、3年程前の情報にも関わらず、Web上の情報で驚くほど忘れ去っているものと言うのは、案外多い。初期の頃のブクマを整理していると、こんなのいつ読んだのだろうか、なんて情報はざらにある。おそらくこの情報を読んだ当時には、これはブクマすべき、なんて考える程度には関心しただろうし、一定以上のアテンションをその記事に関して差し向けたはずなのにも関わらず、ほとんど記憶に無いなんてよくある。酷いときには本当に忘れてしまっている。ちなみに僕はよくされる「あとでよむ」形でのブクマはしない主義だから、過去にブクマしたものは必ず一度は通読しているにも関わらず、だ。これはおかしい。記憶力の悪さには、まあ確かに覚えが無いわけではない。それでも、大体2、3年前に仕事でどんな事をしていたか、軽く話をしてみろと言われたら、大方であれば話せる。昔読んだ本の内容を答えろと聞かれたら、書評を書けるレベルまではいかないまでも、軽く感想を述べるくらいまではいける。なのにも関わらず、ことWeb上の情報に関しては、個々の記事に関して記憶を持っているのは、本当に数える程しかない。他の方も言及されているが、僕が日常的に見てるはてな界隈の記事は、世間一般の知的水準よりは上だと言われている。読むに耐えない記事はそもそもブクマしないだろうし。主観的に見ても、個々の記事は僕のような市井の人*1が考え付けるような水準を遥かに越えているし、悪評もあるが、もしその記事に構造的な欠陥があれば、何らかの形で検証され、淘汰される生態系を保持しているWeb上にて、一定以上のアテンションを稼ぐWeb上のコンテンツは、それなりの質を保っていると考えていいはずなのに。

コインの裏表

往々にして物事や概念は多面的な側面を保つ。コインの裏表みたいに。あるいは、万華鏡のように。本にあって、Webに無い物は物理的な制約である、と考えるのが妥当だと思う。これを逆転的に考えてみると、制約とは、抽象化であり、それはおそらく上位構造、言い換えればメタ構造の構築なんだろうと考えられる。ちょっと言葉にしてみると考えにくいけど、実例を挙げると、多分わかりやすいと思う。わかりやすい例が多分最近の自己啓発関係の本とか。あれはとても見やすいし、構造もしっかりしてる。メタ構造にあたる部分が見出しで、各章は、大体4、5ページ、長くても10ページ位。どこかのライフハックス系のブログのエントリと、質は大差ないと思う。二つの中身はほとんど大差が無いにも関わらず、なんで一方は受け入れやすく、もう一方は忘れ去られやすいのだろうか。多分構造の有無なんだろうと思う。Web上のコンテンツって、何だかエントリ単位でWebを彷徨っているようなイメージがある。属人性とか、個々人の文脈は視野から外れがち。そのblogのカテゴリの中の一記事、といったという意識で読んでる人は多分少ないと思う。極端な話をしてみれば、Lifehacking.jpの人に編集を一人つけて、過去ログを一つの本にすれば売れる。文章をほとんど加筆とか、訂正とかはする必要は多分必要ない。おそらく質に関しては書籍にするからと言って格別手を加える必要は無いんだと思う。そこらの新書を手に取れば分かると思うけど、Webよりぬるい文章はざらにある。ただ、本にはWebにはなれないけど、今のWebには無い特性を持っている。

ネットにある上位構造

Webにも上位構造が無い、というわけでは無い。例えば検索エンジンなんかその最たるものだし、blogや、はてブWiki、あらゆるWeb上に散らばるデータはメタデータを持っている。あるいは、こう言った方がわかりやすいかもしれない。メタデータを持たないデータは、Webから駆逐される。でも、この構造は所詮人が作った物では無いので、なかなかWebは勝てない。おそらく捨象が足りないんだと思う。人間の認知能力には限界があるから、一つの概念に関する構造は、できるだけ入れ子構造を取ってやらないといけない。選択肢は適度に少ない方が理解の助けになる。人間は3の3乗は認知できるけど、27は認知できないようになっているから、階層化できるならできるだけ階層化してあげるのが正しい。そういう意味で、Twitterとかは情報の摂取媒体としては最悪だし、ROMる時間があるのであれば本読んでる方がいい。*2RSSリーダーは使いようによっては、今の旬を読み分ける事ができる。例えば、僕のGoogleリーダーの話だけど、例えば新聞とか、Yahooのトップに乗ったトピックにある関心のあるキーワードをGoogleリーダー検索に打ち込めば、大抵は質の高い情報が帰ってくる。Wikipediaは情報は凄いけど、リンクがあるだけで、上位構造は保持していない。辛うじてカテゴリとかある程度。

時間はいらない

構造化された知識に、おそらく一番必要の無い物は、時間だと思う。何かの概念の元にまとめ上げる場合、時間は邪魔なものになる。昔は、検索ではいわゆる昔ながらの「ホームページ」が上位に来ていた亊が多かったように思える。blogは時間を意識せざるを得ない構造だけど、ホームページの場合、そういうのを意識させない作りの方が多い。また、ブクマを整理しながら思った亊なんだけど、どんなブクマサービスも、大抵はトップページとか見ると、一番新しいものから時系列に無差別に羅列されている。大抵の人は、ここで見る気を無くす。タグが付与されていなかったら絶望的。おそらく見ても。最初のトップページの3、4アイテムだけ覗いて、それで終わりにされる。タグを付与していてもせいぜい1タグ、2タグがいい所。これはぬるいと思う。たとえ1タグで絞り込んでも数百のアイテムが出てきた時点で萎える。理想としては、絞り込んで10アイテムに収まる程度にタグは打っておいた方が、再利用性は高まる。でもそれをしてる人って本当に少ない。多分大抵の人はWebにとっては「今」を見る為だけに使っている人があたりまえなのだろうと思う。それ以外は検索エンジンで、といった感じ。一つの概念に基づいた莫大な量の知というのは、ほとんど無いんじゃないだろうか。

情報を最大限に効果的に吸収できるようにするためには、そこにある情報の、時系列という枠を外した後に新たな概念の元に再構築してあげる必要がある。情報が普遍性を獲得するのは、おそらく時間や、時代性といったもの、限りなく「今」というものを削ぎ落としてやる必要がある。「今」が無いと情報が生み出されないのだろうけど、そう考えると二律背反的な作業なのかもしれない。でもこういうものに成功した情報は、長い時間を生き残る事ができると思う。例えば、僕が今パッと思いつくのは、数学の定理とか。次点としていわゆる古典や、教養と言われる類のもの。前提知識として何らかの時間に結びついた知識が必要な情報は、いつか陳腐化する。

オールフォーワン・ワンフォーオール

一つの上位構造を持つことで、おそらくミクロとマクロの両面から、それはある種の好循環を生み出す。ミクロ単位で単位で見ると、それは多分二重の意味を持つようになる。文章そのものの面白さと、構造の中で果たす役割との二足草鞋を履くような形になる。サッカー・チームにおけるチームと個人の役割みたいな感じ。統一したチーム戦略や、ビジョンの中でしかエースは輝けない。端的なのがオシムが率いた90年のユーゴチーム。ミクロを重視しすぎた当時のマスコミが望む編成でユーゴは敗北を記した。どんなプレイヤーでも関係性の中で輝きを放つ。調和の取れた構造を物ものは相互補強しあって、単体では敵わない強度を持つようになる。これは多分、物語にも言えることだと思う。小説なんかその最たるものなんだと思うけど、文体や、あるシーンを描くことに天才的な人もいるけど、それだけじゃ強度が、多分弱いんだと思う。物語という統一された構造の中に配置されることによって、それは活性化されるし、意味を付与される。多分、その好例が村上春樹だと思う。あの人は個々の文章を書くことにかけては神懸ってるけど、多分物語を描く亊は苦手な人なんだと思う。だからこそあの人が書いたスプートニクの恋人は、物語を描ききった亊で、前世紀の村上春樹の総決算と言っても差し支えの無い、素晴らしい出来に仕上がっている。当然、マクロだけよければいいって物じゃない。そのコンテンツが注目を浴びるには、個々の場面に切り取っても人を惹きつける力が必要。どっちが重要かという話じゃない。これはバランスの話。全体の構造の中で果たす役割を考えながら、自分の持ってる能力を個々に注ぎ込む。イタリアンの料理で、お客さんの反応見ながら、次の皿を準備するのを調整したり、前菜に合うメインディッシュを勧めたりとか、そういうおもてなしとか心配りみたいなもの。

おわりに

ただの刹那的な消費で終わるか、それか、長く通読できる普遍性を獲得出来るかは、上部構造の保持、それにかかっていると言い切って良いんじゃないかって思う。Webが次のステージに進むとしたら、多分そこら辺がキーになるかなと思う。個々の漂流している情報を、あるワンワードどまとめ上げる、それを助けてくれるようなサービスが欲しい。昔、MDにお気に入りの曲をかき集めて、好きな人に渡すような、そんなイメージ。そんな物が、できてきたら、もっと幸せになるような、そんな気がして。

*1:copyright by 朝日新聞

*2:あくまでもコミュニケーションツールとして見なさない場合の話。なんというか本末転倒な見方ではある