: 続・働く人のキャリアの作り方

 オチなしというがうまくまとめているなと思う、というか、ついまとめちゃうのは職業病、ってどうでもいいツッコミはさておき。そして、切隊さんとの応答とかもさておき。
 反論っていうことではないが、薄ぼんやり思ったのだが、ドラッカーは20世紀世界における会社組織ってのを、共産主義国家社会主義(ナチズムがその最たるもの)の両方の国家ムーブメントに対して、社会はどう組織化されるかという問題意識で(ある意味そのあたりがカール・ポランニの弟子筋というか)、会社というありかたを考え、よって経営というところに行き着いた。わけで、ドラッカーは経営がその問題意識の出発点ということではない。そして、ある意味で1980年代の終わりに、会社の経営というところから非営利によるサードセクターと彼は言うのだけど、そうした社会組織が重要になるだろうとして、ま、ソ連崩壊とともに、現在のNPOムーブメントを先駆したのだが、ま、つまり、そこでは、経営という技術がNPO側に移っていくという点で、しかも、そうしたことからテクノクラートと第二の人生という生き方のモデリングという点でも、首尾一貫しすぎた巨大な思想家なのだが…てな話はどうでもよろし、で、ようは、経営というのを国家から組織される社会への抵抗のありかたとして模索されていたわけだが…というところで、では、会社のアイデンティを彼はどうとらえていたか? たしか、それは使命であったかと記憶しているのだが、徹夜明け頭ではうまく思い出せないが、いずれにせよ、ドラッカーは利潤ではないよと強く言明した。このあたりもドラッカー思想の面白いところで、企業の存在意義は利潤を上げることではなく、利潤とは経営の健全性の指標であるとしている。ちょっと薄ぼんやり頭で足すと、つまり、ドラッカーは会社という人間組織と社会と国家の全体像が基底にある。で、企業の使命とはなにか…端折るが、そして、たしかドラッカーは明言していないが、暗黙裏に、使命から還元される会社の理念・文化は想定されていただろうし、してみるに、雇用というのはその側面が大きいのではないか、と、ドラッカー的。
 で、R30さん的はどうよとふと思ったわけだ。くどいが批判ということでもない。
 働くということは、自分が働くわけで、その意味は?という形で、自分の存在が問われる。このあたりの話は俗流マルクス主義を出さなくても、継続的に働くということはただカネのためではなく、結局のところ、自己の社会存在の関係性的な意義付けだし、ゆえにそこは内的に倫理として反照されるだろう。たぶん、たぶん。このあたり、ちょっとプロ倫がからむだが割愛。
 なんか、我ながらまどろっこしいいので、端折りに端折るのだが、ようするに、にも関わらず、現実には、仕事か家族かどっちを選ぶ的な選択は問われる。単純な話、ローンを組んだら終わりだね。金持ちとおさんはよく読まれたがそうずばり書いてあるのに多くの人が読み落とした、というのもわからないでもない自分でもあるが。
 で、頭で考えれば、働く意義意識というのと、仕事か家族か的状況とどう調和するかという道筋にもなるが、言うまでもなく、現状ではとうていそうもいかない、ってか、そのあたりの現場からR30さんも言ってはいるのだろうが、で、そのあたりから、経営者の資質という展開に、なっちゃう、んだよね。
 私はどう考えるかというと、そのあたりが、とても難しいと思う。現実に、仕事か家庭かと問われる状況のきつさは頭でどうにもならん。だいたいが、子供産んで育てる状況じゃないし(公務員は除く)、親の介護と仕事を両立できるわけもないし(公務員は除く)、「妻」は余裕があれば離婚したいと思う比率もすくなくないし(公務員は除く)…ま、洒落のめさなければ洒落にならない状況がある。で、意外に、人間ってのはもろくてぽろっといってしまうのだね。
 と、書くと、じゃ、生き方?みたいな流れにどっと流れ込むわけだが、ま、それはほとんど回答回避に近い。おそらく、まじに実験思考すれば、企業なりNPOの社会的・地球的意義っていう疑似宗教みたいなものをある程度内在倫理化しないと、仕事っていうのは継続できないと思うのだが、この場合の仕事っていうのは、単純にカネの循環でもない…というあたりではないか。
 また、そのスジから変なツッコミがきそうだが、不況不況というが、日本で有効な需要なんてものがあるのかっていえば、単純に、広めの家をローンで買える線が見ればいいということになるけど、その家とかもどんどん都市シフトしているということは、仕事シフトでもあるし、その意味での仕事っていうのは、都市という広義のお友達サークルでもある(そこじゃ育児できないか、育児が文化活動みたいになっちまうぜ)。と、見るに、物質的な意味での需要なんてものはない。サービスの需要は当然あるよ。でも、そんなサービスは生き方に要らないというのアリだろうし、そうしたアリに折れ込むまえに非難できるような、エラシティを社会もたなくてはならないわけだし、それは、デュルケムを持ち出すまでもなく、ある種の緩やかな連帯だろうし、そのあたりが、非知的にずっこけるから、モデレートな宗教=サブ社会がでてきているというのが現状なのではないか、と殴り書きで書いてみたりする。