愛がなくては子どもは育たない、か
⇒愛がなくてもできること - 北沢かえるの働けば自由になる日記
いろいろ思うことはあるけど。
ちょっと話がずっこけて、文脈ハズして。
愛がなくては子どもは育たない、か。
私は、親がなくても子は育つ、親がなければよく育つ、とか言ってきたものだった。
「愛」に「親」がどう関わるかが微妙。
日本的な風土だと(血統を重視しない歴史文化)、実の親より育ての親、とかいうことで、まあ、愛情があれば、それで親、みたいな解答になっている。が。
岸田秀みたいに、育ての親の愛、こそ、っていうか、愛こそ怖いものもはないというのもあり、云々。
そして、そこから、真の愛はなんたらとか不毛な議論に落ち込んで云々。
この手の話は不毛な回路に陥るのだけど。
50年生きてみて、なんとなく信仰観みたいなものだけど、生きているということはどっかに愛があるということなんだよと思う。
先日、ぼうっと、自分は愛情とかに恵まれない子供であったなと思って、しんみり思って、そのまま瞑想していたら、小学校の時のI先生を思い出して、この話は以前も書いたか、どうも自分がぼけているかもだが、I先生はとても公平だったと思い出した。
公平であることが、自分を支えていたと思った。泣けた。
I先生の愛は、自分が50歳になるまで、ある意味で気が付かなかった。し、別段彼女が、私を贔屓にしていたわけでもないし、特別視していたわけではなかった。より正確に言えば、ちょっと微妙な部分はあるし、公平というのもいわゆる社会正義みたいなものではなかった。また、私も彼女の公平に信頼していたわけでもなかた。
でも、彼女は、公平だった。
あれが、愛だったと考えて、いいんじゃないかと思った。
人が、公平に社会に向き合い、人に向き合っているなら、それは、ちょっと誤解した言い方だけど、とても非人格的な対応のように見えるけど、それが結果的に愛なんじゃないか。
キリスト教の愛の奇妙な議論というか、神学というか、どこかに非人格性というのが隠れているような気がするが、そのあたりが、愛、ということなんじゃないか。まあ、そういう議論ではよくわからないが。
別段、エロスが、アガペーが、とかそういうことではなくてね。
世間も人も呪ったし、なんか、きっちとした正義とか、理想とかそういうもんじゃないが。
普通に、世界と人に対して、公平に存在しうるんじゃないかという可能性が、なんとか自分の生きるよすがになっている、と、すれば、愛というのもあったんじゃないかと思うし、ありうるんじゃないかと思う。
別の言い方をすると、愛を求めている人は、その幻影が消えたら、愛が見えてくるかも。そしてそれによって生き直すことが可能になるかも。
いや、まあ、私のいうそんな非人格的な愛なんか、まっぴらごめんという人は多いのだろうけど。