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2006-06-18

「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由 09:29 「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由を含むブックマーク 「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由のブックマークコメント

実に360人もの人がブックマークしたシュレーディンガーの猫の核心という記事が、なぜピントずれのトンデモ記事なのかを、専門用語を一切使わずに説明してみます。文系の人どころか、中学生にもシュレディンガーの猫の核心がわかるように

説明してみます。*1


量子とは何か

よく、「電子や光は、粒子でも波でもなく、量子なのだ」と言われます。


でも、この量子って、「」なんでしょう?


一般人の生活感覚からすると、量子というのは、あらゆる異質なものの中で、もっとも異質なものです。

どのくらい異質かというと、あまりに異質すぎて、僕たちが日常知っているいかなるものとも、少しも似ているところが無いほどです。

だから、「量子というのは、要するに○○みたいなものだ」ということは出来ません。

だって何にも似ていないんだもの。

量子とは、日常知っている何かに例えて説明することができない「何か」なんです。


いや、もっというと、「何か」ですら無い。

ここが一番のミソなんだけど、量子という名前の「何か」が「存在」するわけじゃないんです。

それは、日常生活的な意味での「存在」ではないんです。


これは哲学でも禅問答でもない

ここで勘違いしないで欲しいのは、これは、哲学なんかじゃないっていうことです。

ものの見方の話をしているわけじゃないんです。

べたべたに現実的で具体的で物質的な話として、量子は日常的な意味で「存在」しないんですよ。


量子は、言うなれば存在の確からしさの濃淡パターンとして広がっているだけなんです。

在り方そのものが、われわれが日常イメージするような「もの」とは、根本的に異なるんです。


それは存在「確率」ではない

ここで言う存在する確からしさというのは、「存在する確率」とは違うものです。「確率」というのは、「サイコロを振って1が出る確率」というように、いつかは、「実際に1が出たかどうか」が確定するもののことです。でも、量子の「存在」は、いつまでたっても、確定しないんです。未来永劫確定することは無いんです。いかなる量子であれ、「量子がある場所にしっかりと存在する」という状態は、宇宙開闢以来一度もなかったし、宇宙が消滅するほどの未来に渡ってそれは有りえない。だからそれは確率ではないんです。量子が存在する確率の高いところが濃くなっていて、存在する確率の低いところが薄くなっているわけではないんです。濃いところは「存在そのもの」が濃いんです。薄いところは、「存在そのもの」が薄いんです。(この存在の確からしさのことを、ここでは、便宜上、存在の蓋然性と呼ぶことにします。)


それは雲ではない

このように、存在蓋然性、すなわち存在する確からしさは、なにものにも例えることができません。中学校の科学の時間に、「電子は原子核の周りを電子の粒が惑星のようにぐるぐる回っているわけではなく、電子雲と呼ばれる雲のようにぼわーっと広がっている」という説明を受けた方もいらっしゃると思います。でも、それは、雲じゃないんですよ。雲というのは、霧のようなもので、水滴が空気中に浮かんでいて、その密度の濃いところと薄いところがあって、濃淡ができている。でも、電子雲は、われわれの目にする雲のように、確かに存在するものである水滴の濃淡によって形成された雲ではないんです。それは、「何か」の濃淡なのではなく、存在の確からしさそのものの濃淡なのです。


この世に「存在」するものなど何もない

そして、その量子によって構成される、石ころも、リンゴも、人間も、道路も、建物も、都市も、海も、山も、地球も、太陽も、日常的な意味で「存在」していません。それらのものは、存在の確からしさの濃淡のパターンが複雑に折り重なっているだけで、何かが「存在」しているわけではない。この意味で、ミクロとかマクロとかに関係なく、この世に「存在」するものなんて無いんです。


「存在」しているという錯覚を引き起こしているのは、極端な「濃さ」

でも、僕はここにこうして確かに存在しているじゃないかって?違うんです。それは、存在蓋然性の濃淡パターンの折り重なりにより、総和としての存在蓋然性が、極限まで「濃く」なっているだけの状態なんです。マクロになるほど、存在蓋然性の濃淡パターンが濃くなっていくから、存在蓋然性が実質的に日常感覚的な「存在」と実質的に変わらなくなってくるだけなんです。程度問題に過ぎないんです。我々が「存在」と感覚的に捕らえているものの正体は、存在蓋然性が極限まで濃くなったものなんです。


相対性理論とニュートン力学の関係に似ている

これは、相対性理論とニュートン力学の関係に似ています。厳密に言えば、走っている電車を外から眺めている人から見ると、電車の中の空間は少し縮んでいるし、時間の流れは少し遅くなっています。でも、そんなの日常生活では、無視して、ニュートン力学的な理解だけで十分なわけです。でも、電車の速度が、光の速度にごく近くなると、ニュートン力学はもう通用しなくなる。


これは、物理法則が、低速ではニュートン力学に、高速では相対性理論に従うためでは「ない」んです。低速だろうと、高速だろうと、どちらでも本質的には、相対性理論に従うんです。ただし、低速では、実質的にニュートン力学で近似できると言うだけです。とくに、日常の感覚世界は、ニュートン力学に従って電車は動くと理解しておいて、問題がでることはまず無いんです。


同じように、ミクロだろうとマクロだろうと、あらゆるものは、存在蓋然性の濃淡パターンの折り重なりでしかなく、日常的な意味で「存在」するものなど無いのだけれども、マクロにおいては、日常的な「存在」の感覚だけで事足りるわけなんです。でも、光の速度に近づくにつれてニュートン力学的な理解が通用しなくなるように、電子とか光子とかニュートリノとかのサイズになってくると、日常的な「存在」という理解が通用しなくなっていくんです。


「量子は粒子なのか」という質問自体がピントずれ

こうして見てみると、「量子は粒子なのか?それとも波なのか?」という質問そのものが、そもそもトンチンカンなわけです。

量子はそもそも、日常的な意味で「存在」していないのだから、粒子という日常的に存在するものに例えることなんて、そもそもできないはずなんです。波というのは、「日常的な意味で存在する何か」が波打たなければなりませんが、量子の世界には、そもそも日常的な意味で存在するものなど無いのです。なのに、日常生活的な何かが波打っているかのような前提で話を進めるから、話がトンデモになるんです。粒子とか波とかいう比喩そのものが通用しないのに、それが通用することを前提に議論をするから、粒子であるはずが、われわれの常識における粒子にはありえない振る舞いをするといって、ミステリーだ、パラドックスだと言って騒ぐことになるんです。でも、粒子でないものを粒子だと決めつけておいて、粒子として振る舞わないから不思議だパラドックスだと騒いでいるのって、単なるアホですよね。ごく普通の人が秋葉原を歩いていたら、いきなり変なおじさんがやってきて、「おまえは秋葉オタクだ。秋葉オタクは非モテでセックスなどしないのだ。なのに、おまえは彼女をつれており、その彼女とセックスをしたみたいな話をしている。ミステリーだ。パラドックスだ。」って言われるようなものです。意味不明ですよ。


量子が粒子であることを証明した実験結果があるのでは?

ただ、こんなことを言うと、「量子は粒として観測されることがある。だから、あるときには、粒として振る舞うと考えてもいいのではないか?」という人がいます。

でも、これが、誤解の始まりなんです。

実際には、「量子が粒として観測されたこと」というのは無いんです。


「ええ?ウソだろう?だって霧箱の中で電子の軌道が観測されたじゃないか!」って?

でも、観測されたのは、霧の形で現れたスジであって、粒としての電子そのものじゃないんですよ。

粒がある軌道を描いて通ったから、そこにスジができたわけじゃないんです。

観測したその瞬間に、量子の存在蓋然性の濃淡パターンの濃い部分が、その霧のスジの「太さ」まで「収縮」しただけなんです。

だから、それは、電子の「粒」が「存在」した証拠でもなんでも無いんです。


一切の「もの」が存在しないだけでなく、一切の「こと」も存在しない

そして、もっと言うと、あらゆる「もの」が存在しないだけでなく、あらゆる「こと」も存在しません。リンゴも人間も、存在蓋然性の濃淡パターンが重なり合っているだけなのと同じように、生きているのか死んでいるのかという状態すら「存在」しないんです。存在蓋然性の濃淡パターンが折り重なっているだけなんです。


シュレ猫のパラドックスは偏見にとらわれた人間の自縄自縛的虚妄

だから、シュレディンガーの猫のパラドックスは、そもそも「シュレディンガーの猫が生きている状態の蓋然性の濃さが中くらいの状態」を、日常生活的な「存在」感覚に例えて理解しようとしたことから生じた誤解に過ぎないんです。単にぼくたちの日常生活的な偏見がもたらした錯誤に過ぎないんです。我々の日常生活で目にするものは、すべて、存在蓋然性がものすごく濃いかものすごく薄いものばかりです。つまり、日常生活では、ちょう濃いかちょう薄いかの二値しか、目にすることはありません。でも、それは、たまたま我々がそのサイズの世界に生きているから、それを見たことがないだけで、他のサイズの世界にまでその常識を持ち込むのは、おかしな話です。世界中どこでも英語が話されていて、アメリカの会計基準で組織が運営されていて、資本主義の原則に従って経済活動が行われているのが当たり前だと考えるアメリカ人みたいなもので、自分のところでしか通用しない常識を無理矢理よそに持ち込んで通用させようとするから、はなしがややこしくなるんです。


量子サイズの世界では、われわれの常識世界のように、そんな極端に濃いものや、極端に薄いものばかりじゃないんです。にもかかわらず、真っ黒か真っ白の状態しか思い至らない人間中心的な日常感覚を引きずったままシュレディンガーの猫の生死の状態を論じようとするものだから、「シュレディンガーの猫が生きている状態と死んでいる状態の二つの状態が同時に成立している」とかいう目も当てられないトンチンカンな議論をするはめになるわけです。


白と黒しか見たことがない人が灰色を説明しようとした結果が「重ね合わせ」というトンデモ

そもそも量子力学を解説するときの「重ね合わせ」という言葉使い自体が、あまりにも、我々の日常的な常識に毒されすぎているんです。それは、われわれが日常的に知っているような「状態」が重なったものじゃないんです。状態の蓋然性が極端に濃かったり極端に薄かったりしないだけの、量子サイズの世界ではごくありふれた中間的な濃さの蓋然性だというだけの話なんです。そもそも何も重なったりなんかしてないんですよ。


にもかかわらず、灰色というものを見たことが無いものだから、世の中には黒と白しか無いものだというひどい偏見を頭から信じて疑わず、黒と白だけで灰色を説明しようとするものだから、「灰色というのは黒と白を重ね合わせた状態のことだ」という意味不明のトンチンカンな説明になるわけです


そもそも、パラドックスなんて、どこにもなんですよ。まるで風車を怪獣だと思いこんで突撃するドンキホーテのようなもので、戦っている怪獣は、戦っている人間の脳内にしかいなかったわけなんですよ。


なぜシュレ猫は日常生活サイズなのに灰色なのか?

ちなみに、なんでシュレディンガーの猫はわれわれの日常生活的なサイズなのに、極端に濃くも極端に薄くもなく、灰色の存在蓋然性なのかというと、それが箱の中に入っているからです。箱の中に入っていると、それは、観測不可能です。霧箱の実験のところでも説明しましたけれど、存在蓋然性の濃淡パターンは、観測によって収縮します。だから、観測不可能な状態にあるものの存在蓋然性、あるいは、状態蓋然性の濃淡は、黒と白以外の値をとれるわけです。


ただし、箱の中の状態蓋然性の濃淡が、それ以前の文脈から推測可能なときは、その限りではありません。つまり、あらかじめ死んだ猫を箱の中に入れておけば、その箱の中が観測不可能であっても、その状態蓋然性は中間的な値にはなりません。死んだことに決まっているからです。


シュレディンガーの猫というのは、箱の中に生きた猫を入れ、量子サイズのレベルでの現象によって、スイッチが入るかどうか決まるような装置に、毒ガス噴出装置を接続し、それを猫と一緒にはこの中に入れておくと言うことです。量子レベルでは、ある量子がそのスイッチをオンにする場所に存在する蓋然性の濃さは、黒でも白でもない中間的な濃さをとれますから、ふたを閉めたあと、スイッチが入ったかどうかの蓋然性の濃さも灰色であり、したがって、毒ガスが噴出して猫が死んだかどうかの蓋然性も灰色なわけです。


箱を開けた瞬間に、一時間前に起こったことが過去にさかのぼって決定される

ただし、人間がその箱のふたを開けた瞬間、蓋然性の濃さは、白か黒かのどちらかに収縮します。だから、たとえば、ふたを開けた結果、死後一時間の猫が発見されたとしても、それは、猫が死んでから一時間後にふたを開けたことにはなりません。そうではなく、ふたを開けた瞬間に、一時間前に猫が死んだという過去の事実が決定されたのです。これが、観測による蓋然性の収縮です。


蓋然性を収縮させる「観測」とは何か?

じゃあ、その「観測」ってのは何さ、という話になると思います。で、シュレディンガーの猫の例で行くと、たとえば、ビデオカメラを猫と一緒に箱の中に入れたとしますよね。その場合、猫の生死は、ビデオカメラによって「観測」されているわけです。


実は、その場合でも、やはり、猫が一時間前に死んだということが、ふたを開けた瞬間に決定されます。ついでに、そのビデオカメラが、一時間前に猫が死ぬのを観測したという過去の事実が、ふたを開けた瞬間に決定されます。


人間の意識による観測が収縮をひきおこすのか?

じゃあ、その「観測」というのは、機械による「観測」ではだめで、人間の意識による観測だけが観測なのか、というと、そういう話でもないんです。


たとえば、人間と猫を一緒に入れられるような大きな箱を用意して、人間だけは毒ガスにやられないように、ガスマスクをつけておくことにします。その場合でも、やっぱり、猫が一時間前に死んだことが、箱のふたを開けた瞬間に決定されます。箱の中では、ちゃんと人間が猫の生死を観測しているのにもかかわらず、です。


観測している人を観測するとどうなるのか?

じゃあ、そのとき、箱の中の人間は、生きている状態と死んでいる状態の中間的な状態の猫を観測できるのか、というと、そんなことは無いんです。箱の中の人間が一時間前に猫が死ぬのを観測したという事実が、箱を開けた瞬間に決定されるのです。もしくは、箱の中の人間が猫はずっと生きて元気にしていたというのを眺めていたという事実が、箱を開けた瞬間に決定されるのです。


これは、再帰的な構造になっていて、箱が二重、三重になっていても同じです。猫と人間Aの入っている箱を、別の大きな箱に人間Bといっしょに入れておいたとして、その箱を人間Cが開けて、中の状態を確認するとします。そして、最初に人間Bが内側の箱を開けて、猫の生死を確認し、その後、人間Cが外側の大きな箱を開けたとします。その場合、人間Bにとっては、内側の箱を開けた瞬間に、人間Bの観測による状態蓋然性の収縮が起こり、一時間前の猫の生死が決定されますが、人間Bがいつ箱を開けて中の状態を観測したのかは、人間Cが一番大きな箱を開けて、中の状態を観測した瞬間に決定されます。

人間の意識だけが特別扱いされているわけじゃない

ちなみに、「観測」というのは、人間の意識だけを特別扱いするものでもありません。たとえば、さっきの例で、ビデオカメラと猫だけが箱の中に入っていたとすると、そのビデオカメラが、一時間前に猫の死を観測した、ということが、箱を開けた瞬間に、箱を開けた人間にとって決定されるわけで、その場合、そのビデオカメラと箱を開けた人間の関係は、先ほどの人間Aと人間Bの関係になんら変わりません。


なんで確率による理解ではうまくいかないの?

で、なんで、確率ではなく、存在蓋然性の濃淡パターンというものとして理解しなければならないかというと、さまざまな実験で確認されているたくさんの量子的な現象をシンプルに説明するには、やっぱ、波とか粒とか確率とかの、われわれの日常的な概念の組み合わせでは、どうしても無理が出るからなんですね。

たとえば、二重スリット実験のような現象を説明するには、存在蓋然性以外の説明の仕方だと、どうしても無理が出ます。

この実験では、電子を一つずつ発射しても、波のように干渉します。一粒の電子が、波のように干渉するためには、一粒の電子が二つのスリットを同時に通過すると考えなければ成立しません。じゃあ、それは粒じゃ無くって、波のように広がったものなんじゃないの?と思われるでしょうが、でも、発射された電子が、写真乾版に衝突して跡を残すとき、それは、点になってるんですよ。どうみても、一つの粒じゃないですか。一つの粒なのに、その一つの粒が、二つの穴を同時に通過し、波のように干渉するわけです。

こんなもの、われわれの日常生活的な感覚世界のなにものでもありえませんよね。星飛馬の大リーグボールだって、こんなへんてこな振る舞いをしないわけで、もはや、われわれの知る何ものにも似ていない何かだと考えるしかないんですよ。

で、その何かとは何か、ということで、結局、この現象をシンプルに説明するには、存在蓋然性の濃淡パターンが波のように広がりながら二つのスリットを同時に通過したあと、濃淡パターンが波のように干渉しながら進んでいき、写真乾版に衝突するところで、観測可能状態になったために存在蓋然性が収縮したと解釈するのが一番無理がないわけで。


「分裂勘違い君の「「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由」が核心をついていない理由」というエントリを書いてください

とまあ、この辺で切り上げますけど、僕の流儀で、専門用語を一切使わずに書くとしたら、こんな感じになるわけですが、大人の方がNHKのこどもニュースを見て、「そういう説明の仕方をしちゃいかんでしょ」とか思うように、この説明も、子供ニュース的な説明になってますので、まあ、この辺の知識のある人は、いろいろ不満や違和感もあるとは思います。断定するのにはまだ問題のあるところを、歯切れ良くするために、あえて断定口調で書いたところもありますし、不正確なのを承知で、読者の興味をひきつけるために、過剰に扇情的に書いたところも多々ありますし。とくに、問題視されそうなのは、シュレ猫には別の解釈の仕方もあって、これは一つの解釈に過ぎないのに、まるでそれが世界の真実であるかのうな書き方をしている、ということです。でもね、そういう書き方をした方が、一般人には、圧倒的に分かりやすい文章になるんですよ。テレビ番組とかで、一概にそう言い切れないことを言い切っちゃうのと、理由は同じです。

ちなみに、別の解釈の仕方だと、もっと常識的なものになるかとうと、そうでもなく、むしろ、もっと過激で日常的な直感では受け付けられないようなたぐいのものです。詳しくはgoogleしてみてください。

というわけで、「専門用語を一切使わずに、中学生でも興味を失わずに読めるように」、という制約付きでも、オレの方がうまく説明できる、という自信のある方、是非、「分裂勘違い君の「「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由」が核心をついていない理由」というエントリを書いてみてくださいな。



追記

kagami氏から、同じ現象を別のやり方で解釈する方法もあって、エヴェレット解釈では、別のストーリーになるぞよ〜という感じの指摘を受けましたので、それを受けて、kagami氏のところにオイラが書き込んだコメントをこちらにも転載します。

『「まあこの辺は何が正しいということは、まだ全然不明瞭な世界ですね…。」

そうなんですよね。

結局、「世界が実際のところどうなっているのか?」ということは、誰にも確かめようがない。というか、原理的に無理。われわれ人間にできるのは、解釈だけ。

で、解釈というのは、同じ現象に対して複数考えられるのはよくあることで、その複数のうちどれを取るか、というのは、ようはオッカムの剃刀になるわけだけど、そこまでは、すでにkagami氏に先回りして言われてしまったので、さらにその先を付け足さなきゃ意味のない陳腐な恥さらしなコメントになってしまうぞという無言のプレッシャーに押されてあえてさらに進むと、あとは、人間の知覚系とか人間が築き上げた社会的知識処理システムとの相性の良さで決まってくるのかと。

ようは、同じ複雑さの解釈が二つあった場合、どちらを取るかと言ったら、現在できあがっている数学体系で処理しやすい方とか、人間が感覚的・直感的に理解し、思考を展開しやすい方をとるわけで。

ただ、現実には、必ずしも、どちらかをとる必要はなく、ケースバイケースで、都合によって、使いやすい方をその都度採用すればいいのじゃないのか、という功利主義的な考え方をぼくはしちゃいますね。好き嫌いと言うより、単にその場の実用性で採用する解釈を決めちゃう。なんていうか、解釈って、現実をつかみ取って操作するためにリモコンで操作する機械の手みたいなものだと思っているので、所詮道具というか、あんまり愛着とかは無いですね。

ただ、こういう単なるツールとしての解釈が、大小様々なトンカチが道具箱のなかにひしめいているような状態って、その道具を使って実際に現場で作業をする人たちには、箱の中からどれか一つを取り出して作業するのはごく自然なことなのだけど、一般人にそれをそのまま見せると、混乱しちゃうんですよね。

一般人は、道具を使って実際に仕事をするという発想や動機がないから、その道具でつかみ取る真実そのものに興味を持つ。でも、真実そのものは、実際には理解も認識も不可能なんですよね。そもそも、現場で働いている人は、シュレ猫の意味なんて、深く考えたりしないですよ。たんにその解釈を使ってさっさと目の前の仕事を片付けて、家でおいしいカレーライスでも食べること考えてますよ。だから、単に使いやすい解釈を使うだけですよ。

いや、もちろん、ぼくは、現場で働いている人じゃないし、この話の専門家でもないから知識の正確性はとても怪しいんだけど、現場で働いている人たちと何度か話したことがあるので。

で、友人とか知人とかに、シュレ猫とかの話をせがまれるたびに、そのあたりのギャップのうめかたが、けっこう悩ましいとかよく思うんですよね。いや、本当のところどうなのかは、原理的に分からないんだ、と言っても、ぜってー納得してくれないんだから、ほんと。』

*1:専門用語どころか、シュレディンガーの猫を一般人に説明するときによく用いられる一般的な言葉遣いそのものを避けました。実は、シュレディンガーの猫そのものは簡単な話で、そこには難解さどころか、不思議もパラドックスもないのです。一見、難解さとか不思議とかパラドックスを引き起こしているように錯覚されるのは、単にだめだめな言葉遣いのせいなんです。簡単な話をややこしくしてしまう、一般人に誤解と混乱を引き起こす言葉遣いのせいなんです。たとえば、一般人の理解している「確率」とはぜんぜん別の概念なのに「確率論的に存在する」という表現をするから、彼らは混乱してしまうんです。また、一般人がイメージするような「状態」が重なっているわけではないのに「重ね合わせ」という言葉を使うから彼らは混乱してしまうんです。そもそも何も重なってないのに、重なっているとか言うから、混乱が起こる。だから、これらの言葉遣いを避けるというより、むしろ、それらの言葉遣いを積極的に否定することが、一般人がシュレ猫をスムーズに理解するための鍵だと思い、この文章を書いてみました。

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