文学の礎

文豪の古典力―漱石・鴎外は源氏を読んだか (文春新書)/島内 景二
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源氏物語の原文は難解極まりない。

明治の文豪は、そこに必死に喰らい付こうとする気概があった。

源氏物語を吸収し、それを超えるものを生み出そうと、

漱石にしても鴎外にしてもその作品の中には源氏物語が脈々と受け継がれている。

ところが与謝野晶子の『新訳源氏物語』(大正元年)が出ると、

いっぺんして、原文の源氏物語は読まれなくなった。

現代語訳の源氏物語は、源氏物語のバーチャル体験であり、

本物の美しさ、行間に込められた思いが失われてしまった。

口語訳は、与謝野晶子の功績であり、功罪であり。

古典は死に絶えた・・・

源氏物語とは恋物語である以上に

「このように自分は生きてきた」

「このように自分は生きたかった」

「これからはこのように生きたい」

という叫びで、あるべき人生を作り出すエネルギーをも凝縮していた。

と、あとがきでだいたいそのようなことが述べられている。

で、本文なのだけど、

読むのが大変じゃ〜〜〜〜〜

このあとがきだけで、いいような気がするあせる

うちには、谷崎潤一郎訳の源氏物語があります。

もっとも谷崎大先生は紫式部も源氏も嫌いで

紫式部ごときが自分の創作に影響を与えることなど出来ない」

と仰ってますけど(笑)

それでも訳に10年を費やしたというのですから、嫌いではあっても、認めてはいたのでしょうね。

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ところで、その源氏物語は、蜻蛉日記がモデルとしてある。

蜻蛉日記を分解、空想し、新たな設定を加え、蜻蛉日記を物語的に仕立てた。

蜻蛉日記は、

よその女の元へ走る夫への恋心と恨みつらみ。

現代のブログにありがちですね。

そんなことは耐え忍ぶのが当たり前の時代に、

苦しい、悔しいをハッキリ書き記しちゃうのですから、相当自尊心が強かったようです。

今じゃ当たり前。

それまでの読み物は、きっと神話のように遠い世界の物語だったのが、

突然こんな物語が出たのですから、当時ベストセラーになるのはわかる気がします。

人は、自分に近い話の方が感情移入、共感しやすいですものね。

特に、身の内だけで悶えて苦しむしかない男女のことは

「そうそう!わかるわかる!」と縋りつく思いで貪り読んだのではないでしょうか。

最初、ブログというものが出た時、

私は(えっ・・・日記をネットで公開しちゃうの???)

そんな恥ずかしいことなんで出来るんだ???それの何が面白いの???

と、信じられない思いがしたけど、

元をただせば、蜻蛉日記ですね(笑)

多分、この人が日本初のブロガー(笑)

なんせ、この人切ないです。

この人・・・というのは、蜻蛉日記の作者ね。残念だけど身分が高くないから名無しのゴンベ。

藤原道綱の母』とだけある。

才色兼備だったようですが、夫は他の女性の元に行き、自分の所には来てくれない。

(当時は一夫多妻制で、夫の通い婚。女性は待つしかない。)

なので、切ない文(手紙)を送るわけです。

(私寂しいの・・・どうぞどうぞお立ち寄りください・・・)と、しおらしい和歌を詠んで託す。

で、夫(藤原兼家)が、(んじゃ、たまには行くか!)

といざ行ってみれば

不満たらたら、態度は悪い、(なんだ手紙とまったく違うじゃないか!)

そして、余計兼家の足は遠のいてしまう。

アハハハハ 道綱の母の気持ちわかるよね。

男は、顔さえ出せば機嫌は治るだろう・・・と、考えるんでしょうけどね。

兼家には第一婦人もいるけど、そっちの人は、

余計なこと言わないから、普通に仲良く出来たようです。

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