琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ブログが終わるとき

finalventの日記 - ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか

 これを読んで、僕がいちばん印象に残ったのは、この部分でした。

 以前は少しでも支持してくれる人がけっこう励みだったし、いまもそれはそうだけど、でも、やはりそれも基本的には捨てて行く。っていうか、自分が人から捨てられていく過程と同じなんだしね。

 ブログや日記を書くことで、私は、多くの人に捨てられていくという感じを持っている。

 ブログで「自分の意見」を書くというのは、けっこう痛みを伴うことなのかな、という気がしています。
 それこそ、ほとんど見に来る人もいなかった時期には、「とにかくインパクトがあることを書いてやろう。どうせゼロ以下にはならないんだし」というような一種の「開き直り」があったのだけれども、それなりに来てくれる人が多くなってくると、やっぱり、いろいろと考えるところもあるわけで。
 「こんなことを書いたら、いつも読みにきてくれている(であろう)あの人(と言っても、ネット上だけでの付き合いなんですけどね)は、悲しむか、僕に幻滅するんじゃないのかな、とか。
 でも、何の「偏向」もないものを、人はあまり読みたがらないものです。

 結局のところ、いろんなものを捨てたり、削ぎ落としたりしながら、書き続けているのですよね。もちろん、その一方で、新しく読んでくれる人が増えたりもしているのでしょうが、僕自身は、最近なんだか袋小路に嵌ってしまっているような気がしています。
 今までの経験があるので、きっとこういうのには波みたいなのがあって、それこそ「ホットエントリ連発!」みたいな時期だって、またいつか来るのではないかな、とも思うのですけど。
 とりあえず今は、静かに本やDVDの感想を書き続けてやっていこうと思います。やりようによっては、こういう「感想記事」でも、僕自身の考えていること、言いたいことというのも、少しずつでも、伝えられているのではないかな、とも思いますし。
 以前、「ブログを長く続けたいなら、TVの感想日記がいちばん良い」というのをどこかで読んだことがあります。それは、毎日繰り返されるものだし、多くの人が共有するものだし、そして、個々が異なった感想を抱くものだから。
 「時事ネタ」「社会問題」について語るということは、ある意味、「風船を膨らませ続けるようなこと」なのかもしれません。膨張すればするほど、終焉が近づいてしまうのです。だからといって、膨張することを拒絶した風船は、ただ、少しずつしぼんでいって、そのうち忘れられてしまう。

 結局のところ、僕の場合は、「書きたいことが書けない」と思いつつも、ここを離れることはなかなか難しくなってしまっているのだろうな、と感じるのです。id:kmizusawaさんは、

考えた結果、他にプライベートモードの場所を借りて、ここに書いていたようなことを書くということにしてみましたが、よく考えると意 味がないので、現在はローカルで書いています。それはそれで「安全地帯から陰口を言っている、卑怯だ」ということになるのでしょうが、その評価は当然ですので文句は言いません。

 と書かれていますが、僕が同じことをやったときには、「多くの人の目に触れると、書きたいことが書けなくなって嫌」だったはずなのに、「同じ僕という人間が書いているのに、誰も相手にしてくれない」ということに、1か月くらいで耐えられなくなってしまいました。悲しいことに、ブログの訪問者というのは、なかなか「ちょうどいい塩梅」には、なってくれないみたいです。
 自分にとって、あまりにも閑散としすぎているか、あるいは、人が多くて、雑音で騒がしすぎるかのどちらかにしかならない。
 それに、「チラシの裏にでもいいから、本当に書きたいこと」なんて、たぶん、そんなにたくさんは無かったんですよね、僕にとっては。チラシの裏に実際に書いてみるまで、そのことに自分でも気づいていませんでした。

 でもほんと、そこらへんの小学校の校長先生や中小企業の社長よりも、はるかに多くの人に、毎日「話を聞いてもらえる」のってすごいことですよね。身内にだって、まともに聴いてもらえないこの御時世で。

僕は、ブログの「終わり」について考えるとき、いつも、このエントリを思い出します。
更新が止まったダイアリーに書かれた最期の言葉(by ラージアイ・イレブン)
「終わり」を宣言できるブログっていうのは、実際はすごく少数派なのです。
そして、「終わり」を宣言できるほどの「もてはやされ体験」をしてしまうと、なかなか「ブログから離れる」というのは、難しいことなのではないでしょうか。
「引退」したはずの芸能人の多くが、いつのまにか「復帰」してしまうように、「引退し続ける」っていうのも、けっこう忍耐が必要なことなのかもしれません。昔の「テキストサイト」なんて、「閉鎖のお知らせ」に、当然のごとく新しいサイトのURLが載せられてましたしね。

 僕が今度止めるときは、「炎上」でやめざるをえない状態になるか、「自然消滅」にするつもりです。もっとも、こういう「個人サイト」という文化そのものも、現在のニンテンドーDSの学習ソフトと同じくらいの閉塞感を、すでに抱えているような気もするのですが。

ダイワスカーレット、熱発でオークス回避

http://www.nikkansports.com/race/f-rc-tp0-20070517-200014.html

ええーっ!
僕はオークスではダイワスカーレットを外した馬券で勝負するつもりだったので、回避は残念です。
まあ、馬券のことはさておき、この馬がオークスの2400mをこなせるのかどうか、とても興味があったのですが……
ここを勝てれば、「3冠」の可能性も十分あっただろうし。

巨船ベラス・レトラス ☆☆☆

巨船ベラス・レトラス

巨船ベラス・レトラス

出版不況、文学の衰退…。この船のさだめは、海の底へ導かれているのか。おお、われわれはどこへ向かっているのか…。「大いなる助走」から30年。鬼才が現代日本文学の状況を鋭く衝く、戦慄の問題作。

筒井康隆フリークとしては、こうして筒井さんがまだまだ現役バリバリで「問題作」を書き続けてくれていることそのものが大きな喜びなのです。でも、正直この『巨船・ベラス・レトラス』に関しては、「ちょっと御大、いくらなんでもこれは、自分が『筒井康隆』であることを過信しすぎているのでは?この本が最初の筒井作品だという読者は、間違いなく引いてしまいそう……」と言いたい気分になりました。最後のほうの「暴走」している部分はとくに……それが「文学についての問題」というよりは、「厚かましい商売人が引き起こした問題」のようにしか僕には思えませんでしたし。
そういうのを描いて作品のエッセンスにするのは、筒井さんの「お家芸」ではあるんですけど、なんというか、『大いなる助走』ほどのサービス精神もなく、『夢の木坂分岐点』ほど読者に挑戦的でもなく、「なんだか筒井さん、小さくまとめちゃったな……」と悲しくなってしまうような作品なんですよね。もちろん、これはまぎれもなく「筒井康隆の世界」であり、けっしてつまらない作品でもないですし、最近「本屋大賞」にノミネートされている「読みやすい話」ばかり読んでいる僕にとっては、久々に「手ごたえのある小説」を読んでいる、という緊張感もあったのですが……

 それに比べりゃ今の作家は同時期にデビューした作家仲間と連絡を取りあって、執筆状況や原稿料や何やかやの情報交換をしながら、他より進まず遅れずほどほどの作品を生み出していこうという程度の望みしか持っていないようだ。これは若い作家に限らない。今の若い連中はみんなそうだが、ブーアスティンの言うアンテナ型になってしまった。周囲を見て自分の行動を決める、他人と容易に同調する、仲間から一歩抜きん出ることは摩擦を生みシカトされる恐れがあるから避ける。そして作家の場合ただ作家になり他の作家と肩を並べることができたというだけで自足してしまう。勉強といっては仲間の作品を、自分の作品もその水準さえ維持していればいいんだという安心感を得るためにのみ読むだけだ。皆と同じことをして何が悪いという心理が根幹にあるから、仲間の評価以外の批判を聞き入れることはない。あのう、これはレベルの違いがあるだけである程度は最近の純文学をやっている作家の一部にも言えることなんだね。

 まあ、こんなことを堂々と書けるのも、やっぱり「筒井康隆だから」なんですけどね。

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