内田樹「街場のメディア論」


街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)


 内田樹先生の街場シリーズ4冊目。危機的状況にある現代メディアを俎上にあげ、その問題点の本質を人類学的地平から見極める目からウロコの一冊。


 オイラもメディアである


 「メディアの不調は、我々の知性の不調である」という指摘がまず目を引く。その言葉から思い出したのは「私たち自身がメディアなんだ」という言葉。これは、1994年に起こった松本サリン事件の際、誤報により河野義行氏とその家族に報道被害を引き起こしたメディアを逆取材した、松本美須々ケ丘高放送部の高校生の言葉である。


 なぜメディアが松本サリン事件をめぐる報道被害を引き起こしたのか。高校生はメディアに関わる人々のインタビューを通じて明らかにしていく。それだけで濃密な内容なのだが、もっとドラマティックなのは、取材の過程で、高校生が成長し、取材する自分たちがメディアであることに自覚していく点にある。突きつめれば個人一人ひとりがメディアであり、使命と責任を担っていると気づいていく。「私たち自身がメディアなんだ」という言葉は、そうした意識の覚醒の言葉なのである。


 オイラもまた、その言葉の意味をかみしめる。オイラもメディアである。高校で教壇に立ち、演劇公演をプロデュースし、そしてブログを紡ぐ。誰かから影響を与えられ、誰かに影響を与える。


 無責任な言葉は暴走する


 「メディアの語法の定型性」に対する指摘も面白かった。今のマスコミには、マニュアル化された、血の通っていない、誰が書いても同じような文体がが流通している。これは「これは私が書きたいと思って書いたことであり、それが引き起こした責任を私は自分で引き受ける」という人間が誰もいないということである。無責任な言葉だから、言い方が変でも、論理が破綻しても、汚い言葉づかいでも、あまり気にしない。だから暴走する。極端なまでのバッシングはその典型である…。


 多くの教師は定型的にしか語らない


 私たち自身がメディアである、だとするならば、私たちも自分の定型的な物言いには敏感になるべきである。実感のある言葉を喋り、その言葉に責任を持たなければならぬ。しかし、現実は、定型的な物言いは、社会に氾濫している。
 学校もそうだ。多くの教師は、定型的にしか語らない(語れない)。指導要領で縛られ、上意下達の「通達」によって縛られ、保護者などの突き上げや、マスコミのバッシング、コンプライアンスの名の下に縛られる。学校は事なかれ主義の場所と化し、自分の言葉で喋り、自分の言葉に対する責任を取ろうとしなくなる。だからこそオイラは、自分の実感ある言葉を、「知性の不調」と言われない水準で語りたい。強く強くそう思っている。


 ということをつらつらと書き連ねているのは、「街場のメディア論」が、オイラ宛の贈り物であると認識したからですね。では、オイラの発した言葉を、贈り物と勘違いしてくれるどこかにいるだれかのために、このブログを書き続けるのである。


ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年

ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年


 上のエントリーでも触れた松本サリン事件の報道検証を、高校生たちが自分で考えながらおこなった記録。教育実践としても貴重。