ポストライトノベルの時代へ

 週刊朝日別冊『小説トリッパー』(2005年春号)の特集ポストライトノベルの時代へASIN:B0007W9DAY)を読む。友人に「ラノベというものが分からない」とこぼしたら、本書を薦められたもの。読みたい記事は3本しかなかったので経済的事情から躊躇したのですが、読み応えがありました。
小説 TRIPPER (トリッパー) 2005年 春季号

ライトノベルをめぐる言説について

 大塚英志×斎藤環の対談。まず最初に各々の立ち位置を示し、互いに言い合いをして、結局は物別れに終わる。精神科医として、とりあえず対象を肯定してから自己分析を始める斎藤。ライトノベルズを肯定してはならない、徹底的に厳しく接してつぶしにかかるのが文芸批評であり、そうしなければ作家は育たないとする大塚。評価しない作品は無視することも批判になりうるとし、批判がコミュニケーションを切断することを危惧する社会的ひきこもりの発見者・斎藤。それに対して、批判こそがコミュニケーションであり、作家から憎まれてでも文芸批評を展開しなければならないというおたく自虐史観語り部・大塚。
 軸上では対極にあるけれども、軸線そのものはズレていない。もし、対談相手が斎藤ではなく×××だったりしたらと思うと……(汗)。それぞれの著作を読んで、両者を引き合わせたらどうなるかをシミュレートした通りの結末ではあります。ですが、具体的な作家・作品名を挙げつつ文芸批評のあり方そのものを論じているところからは、大いに知的刺激を受けました。

社会領域の消失と「セカイ」の構造

 笠井潔による評論。久美沙織日日日(あきら)『ちーちゃんは悠久の向こう』の解説で披露した《セカイ系》への違和感を突端にして、恋愛空間と社会領域の接続関係を論じる。ここでは「セカイ」を、「無力な少年と戦闘美少女が接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域」と定義している。
 具体的に取り上げているのは、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』、高橋しん最終兵器彼女』。私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)の方法的な消去を徹底したものとして、新海誠ほしのこえ』を挙げる。そして、これらの作品群と1970年代の学園ラブコメあるいは80年代のコバルト文庫を橋渡しするものとして、『新世紀エヴァンゲリオン』や上遠野浩平ブギーポップは笑わない』を置く。そして結びでは、宮台真司が1995年に述べた「終わりなき日常を生きろ」をセカイから振り返る。
 セカイ系歴史学序説として整理されており、使い勝手がよい。全体の位置関係を掴みかねている者にとって、手頃な案内図になっている。
 笠井の論考を読んでわかったのは、私が《セカイ系》に拒否感を持つのは、どうも根源的な価値観から来ているものらしいこと。だって、労使関係法を専攻し社会中間団体の意義を考えている人間が、社会領域を見ようとしない少年少女に共感なんてしていられないです(^^;)

幼年期は終わらない

 中島梓(=栗本薫)によるラノベ初体験記。ご子息に「面白いもの10冊+ひどいもの2冊」を選んでこさせ、読んでみました――というもの。ライトノベルに慣れ親しんでいない旧世代の読み手が感じる感覚を、小説仕立てで綴る。自分の好きなジャンルに否定的評価が与えられることに耐えられないラノベ主人公的な精神構造の少年(特に、おかゆまさき撲殺天使ドクロちゃん』に萌えている人)は、読んではダメです。
 中島は、『ブギーポップ』や時雨沢恵一キノの旅』を前にして、読み手&書き手の《無力感》《絶望感》に思いを馳せる。そして、複雑で情報過多な社会に適応すべく「シングルタスクのシンプルな思考形式」を選び取ることで乗り切ろうとしているのではないか、と考える。
 評論というより、エッセイとして楽しませていただきました。


▼ おとなり書評
http://d.hatena.ne.jp/megyumi/20050415/p4