日産とプリンス 合併の裏で。。。Part2

 日産とプリンス合併を主導したのは通産省であった。当時の通産大臣は、自民党河野一郎*1派を背景とする桜内義雄であり、次官は佐橋滋であった。通産省のスポークスマン的存在であり、「ミスター通産省」と呼ばれていたほどの男だ。城山三郎の『官僚たちの夏』の主人公は彼をモデルとしていると言われている。桜内大臣の時はもちろん、つぎの三木武夫大臣の時も、「佐橋大臣、三木次官」と称されたほどのやり手であった。佐橋次官は、自民党内閣が3回も国会に提出したがお流れとなった特振法の発案者で、その最大の目的が自動車業界の再編であった。再編成のシミュレーションは何度も行われた。あらゆる合併のケースを検討し、最終的にはトヨタ、日産の公社的合併すら勘案されていたという。自動車の輸入自由化が1964年9月と予定されていただけに、業界に警笛を与える意図もあったが、官僚特有の焦りもあったようだ。このとき、実現可能と見て、まな板に乗せられたのがプリンス自動車だったのである*2
 合併当時、通産大臣であった桜内義雄は、大臣就任直前、欧米諸国の自動車工場を見学し、日本と欧米の自動車産業のレベルの違いを否応なく見せつけられていた。それだけに、「佐橋大臣、桜内次官」と揶揄されながらも、合併問題に対しては熱心となった。脚色佐橋、演出桜内と呼ばれた日産とプリンスの合併だが、桜内の演出ぶりは、熟練者のそれであった。
 被合併会社の一番目を、プリンス自動車に選んだ背後には、オーナーの石橋と同じ福岡出身の木下俊夫なる人物が存在した。木下は日産プリンス合併後に3ヶ月で他界したが、隠れた功労者であった。彼はプリンス自動車会長の石橋正二郎を中心とする石橋財団の理事長であったが、その夫人である文子は、桜内の妹であり、桜内大臣とは義兄弟の関係にあった。桜内は、義弟の木下を通じて、大株主・会長の石橋正二郎の心境を読み取ることができたのである。

この項つづく。

*1:現、自民党衆議院議員河野太郎は、その孫。

*2:本田宗一郎は自動車への新規参入を拒もうとする特振法に猛反発し、佐橋次官に直談判している。