中世における理性と信仰の関係

 理性と信仰の対立はアウグスティヌスにおいて、理性的探求は信仰から出発して神の直観をめざして進む、という考え方でもって統合されている。すなわち、アウグスティヌス預言者イザヤの「あなたがたはもし信ずるのでなかったのなら悟ることもないんだろう」という言葉をくりかえし引用し、悟るためにはまず信じなければならない、と説く。
 
(中略)

 のように、理解し、悟らんがために信じることを出発点とし、信仰の理解という過程を経て、終点すなわち神の直観に到達する、というアウグスティヌス的統合が、中世の全体を通じて行われた信仰と理性を結び付けようとする試みにとっての模範となったのであり、ある意味ではこの統合の破綻がそのまま「中世」の終末を意味した、といってもよからろう。

 『トマス・アクィナス』 稲垣良典著より


 ジョンロックは、『統治二元論』において、善悪の判断基準を、①神の法則、②公民法、③公衆の意見あるいは流行の法則という三者においていて、一番の神の法則は社会が成り立つ前、自然状態においても成立しているといっているのですが、僕はそこが引っかかってしかたがなかった。ヒュームやアダム・スミスと違い、彼が善悪の判断基準に超越者である神の存在をおいたのはなぜか。それを単なる文化の違い、時代の違いとだけという説明では満足できず、当時のことを調べ始めたのだけど、とても迷走している。というか、ジャングルの中で途方にくれている状態といったほうがよいかも。とりあえず、ジョン・ロックあたりの社会思想史について知るには中世あたりから調べないといけないことが分った。そして暗黒の時代といわれた中世というのが、なかなか面白い。この中世をもう少し探索して、近代に入り、そして現代に辿りつきたい。

とりあえず、今読んでいる本のリスト

王の二つの身体〈上〉 (ちくま学芸文庫)

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“個”の誕生―キリスト教教理をつくった人びと

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トマス・アクィナス (講談社学術文庫)

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富と徳―スコットランド啓蒙における経済学の形成

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丸山眞男座談〈4〉1960−1961

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タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

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諦めの念を持って、トラウマと付き合っていく

 西尾維新の「猫物語(黒)」を再読して思ったのだが、相手のトラウマを極端に認めることを結構有効な手立てなのかもしれない。阿良々木くんのちと長い説教なんだけど、引用してみる。

「お前はその性格のままで一生生きていくんだよ!変われやしねーんだ!別の誰かになれたりしないし、違う何かになれたりしねーんだよ!そういう性格に生まれついて、そういう性格に育っちまったんだから、しょうがないだろ!もう済んだことで、終わったことで――今とつながっていようと昔は昔で――言うならただのキャラ設定だ!否定したってなかったことにはなんねーよ!文句言ってねーで、頑張て付き合っていくしかないだろうが!」

「オッケーオッケー、気にすんな!ドンマイだ!不幸だからって辛い思いをしなきゃいけねーわけじゃねーし恵まれないからって拗ねなきゃいけねーわけじゃねえ!やなことあっても元気でいいだろ!お前は!お前って奴はこのあと、何ごともなかったような顔をして家に帰って、退院したお父さんとお母さんと、またこれまでとなんら変わらない、おんなじような生活を送ることになるんだ!一生お父さんともお母さんとも和解できねえ、僕が保証する!万が一幸せになっても無駄だぞ、どれほどハッピーになろうが昔が駄目だった事実は消えちゃくれないんだ!なかった事になんかならねえ、引き摺るぜえ!何をしようが、何が起ころうが不幸は不幸のまま、永遠に心の中に積み重なる!忘れた頃に思い出す、一生夢に見る!僕達は一生、悪夢を見続けるんだ!見続けるんだから――それはもう決まっちゃってるんだから目を逸らすなよ!」

中略

猫を理由にするな。
怪異を口実にするな、
お化けを契機にするな。
不幸をバネに成長するな。
そんなことをしてもー結局、自分で自分を引っ掻いているようなもんじゃねえか。
怪異なんでーー本当はいないんだぜ。

(『猫物語[黒]』P.270より)


 トラウマという負の感情をばねにして、頑張るというのは良くある話といえる。その負の感情を正のエネルギーに転化するということは素晴らしいことだけど、もしそれを充分に行うことができなかったら、その自由にした負の感情は自分を傷つけることになると思う。(そもそもトラウマから完全に自由になることはできるのか?)それに不幸をバネにして成長しようとすることは、あたりまえだけどその不幸を切り離したいという願望から出たものであって、完全に切り離せないかもしれず、自分の一部となっているトラウマをそんな風に否定した形で向き合うことは、かなりつらいのではないか。少なくとも、そのトラウマとうまく付き合うすべ、負の感情を正に変える方法でも持たない限り、トラウマの否定は自己否定のままで終わってしまうと思う。だから、一番最初にするべきことは否定するのでもなく、肯定するのでもなく、そのトラウマを苦しみながらも抱えていくのを認めること、トラウマとうまく付き合うこつを学ぶことじゃないか。その助けになるのが、「あなたのトラウマは一生続くものだ」という、ある意味諦めを促す極端な言葉だと思う。そういう諦め念をもって、あるい観念して、自分の過去と向き合うのが最初の一歩ではないか。
 別にこれはトラウマから解放されたわけではない。状況は何も変わっていない。トラウマはいつでも襲ってくるし、それで落ち込むこともあるだろう。最悪な場合、トラウマに飲み込まれて、再起不能になるかもしれない*1。しかし、その感情を否定するのではなく、その感情も自分の一部でどうしようもないものだと受け入れることで、人はト少しは余裕をもって自分の過去と向き合えるじゃないかな。(もちろん、そんなことをせずとも、向かい合える強い人もいるだろうけど)
 その成果が、猫物語(白)に現れている。
 
1 冲方丁の「マルドゥックヴェロシティ」はその典型例

*1: