死に神はあした来る

死に神はあした来る
辻 真先

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朝日ソノラマ 2000
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 すっげー!
 新宿の紀伊国屋で古本市(9月7日(金)〜9月30日(日)まで)があると聞いて、出かけて見つけたうちの一冊で、初版は1975年11月10日で手元にあるのは1980年2月15日発行の第五版。
 あらすじはこんな感じ。

《あいつがあらわれると、かならず次の日に死人が出る》 大けがの後遺症で他人には見えない死に神が分かる圭は、恋人礼子に忍び寄る黒い影を見た。礼子を死なせてなるものか。ボディ・ガード役を買って出た圭は、逆に礼子に命を救われた。《圭、よかったね》身代わりに死んだ礼子のささやきが、圭の血を騒がせる。《畜生! 俺は礼子を取り返すぞ》 こうして圭の、冥界への殴り込みが始まった。

 挿入される絵がイラストでなくて、挿絵だったり、分かりやすくしようと時事ネタ*1を入れてそれが逆にわかりにくくなっていたりして時代を感じさせるけれど、つぎ込まれたアイディアはとんでもない。分かりやすくするために冥界ってことになっているけれど、そして確かに死に神がやってくるのだけど(ちなみにこいつは死人坊といって、能登半島に話の残っている妖怪らしい。)、冥界といいつつ現代の視点で見ると、これは決して単なる地獄巡りではない。
 ちなみに作品内に出てくる冥土の定義は次のようなものだ。

なんてこった……いまのおれは、手も足も顔さえもない、人魂みたいなものなのか。この世界は、まぼろしばかりでできているんだ。道理で、斬られても突かれても、その場限りの痛みだけで、傷がのこらないわけだ。精神と精神、意志と意志とが、文字どおり裸でぶつかりあう――それが死の国だったのである。

 そして、そこでの戦いはこんな感じだ。ムンカルってのは倒さなくてはいけない敵の名前である。

身がまえたとき――圭の脳細胞に無数の閃光がまき起こった。
(あっ。)
 閃光は幾千幾万と数をまし、アメーバのように偽足(ぎそく)をのばして、圭の頭を占領しようとする。その光が(見えないにもかかわらず)ムンカルの火と同じ色であると気づいて、圭は反撃に転じた。
(中略)
精神力の戦いに、上手下手はないんだ。ただ自分の意志を、レンズを使ったようにどこまで集中できるかが問題なんだ。
(中略)
精神エネルギーは一種の電磁現象である。架空の椅子や電極を使わなくても、ムンカルの強大な思念を結集すれば、やがて圭の絶縁はやぶれ、はげしい短絡(ショート)を起こして廃人とかすはずであった。

 また、こんな描写もある。往年のハリウッドスター、エロール・フリンとの対決の場面。

(ばかみたい……痛むのは、ただ気のせいだってこと、あいつ知らないのか?)
 むろんフリンだって知っている。だが、だからといって、蹴られても焼かれても平気でいるなんて図々しい人間は、そんじょそこらにいるものじゃない。脱線転覆あり得ないと承知でも、ジェットコースターの乗客は、地獄へ突進するような悲鳴をあげるではないか。

 もしかしたら勘違いかもしれないが、ここで分かりやすく死の国とか冥土とか呼んでいるものは、明白に仮想空間であり、そこでの戦いは24年後に世界を席巻した「マトリックス」を先取りしているのだ。1975年の作品でそんな場面を見ることになるとは思わなかった。これがあと10年ちょっと遅く書かれていたら、作者も自分の書きたい話が死の国なんてものを使わなくても成立することを知ったに違いないし、それでも受け入れる読者層がいることも分かっただろうと思うともったいなくて仕方ない。背表紙のジャンルも「怪奇」になっているが、むしろアイディアとしてはSFなんじゃねえかと思う。
 残念なのは、いまでは差別語とされる単語が無邪気にちりばめられているため、再販はほとんど不可能だろうと思われることだ。奇跡のような一品なのに。
 古本屋で見かけたら買って損のない作品だと思う。とても面白かった。

*1:「こないだテレビで森蘭丸役をピーターがやってた」とか書かれてて、なんのこっちゃと調べてみたら、どうやら「てなもんや一番槍(データ)の話だったようだ。分からないっつーの。

ティム・オブライエン 村上春樹 訳 ニュークリア・エイジ 

ニュークリア・エイジ (文春文庫)
ティム オブライエン Tim O'Brien 村上 春樹

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チアリーダーの過激派で、「筋肉のあるモナリザ」のサラ、ナイスガイのラファティー、200ポンドのティナに爆弾狂のオリー、そしてシェルターを掘り続ける「僕」……'60年代の夢と挫折を背負いつつ、核の時代をサヴァイヴする、激しく哀しい青春群像。かれらはどこへ行くのか? フルパワーで書き尽くされた「魂の総合小説」。

 近未来の1995年で穴を掘る主人公が来し方を回想し、現在と過去が平行して語られる青春小説(?)。ナイーブな「僕」ことウィリアムは、小学校の頃から核の恐怖に怯えて、あれこれ周囲とトラブルを起こす。大学では強迫観念に駆られて、「爆弾は実在する」という看板を持ってジッと立ったりする。そのうち仲間がやって来て、なんだか分からないうちにウィリアムは過激派への道へと迷い込んでいた。
 という感じで話は進むんだけども、読みどころはサラのツンデレっぷりだ。というよりこの話、ツンデレ少女が、完膚無きまでに完敗するのを追い続けたストーリーに見えて仕方ない。「私は求められたいの」といいつつ、求めてくれないウィリアムのことがずっと好きなサラ。主人公が他の女を追い求めるときも、わざわざ同行するサラ。あんまりにもこっちを向かない彼にキレたサラの台詞がジンときた。

私だって気位は高いのよ! 私だって、私だって、馬鹿じゃないわよ。あなたの首に私のファイ・ベータ・カッパ(学業成績優秀な学生で構成される、アメリカ最古の友愛組織)のバッジを吊してあげるわよ。ステディーになりましょうよ。お医者が言っていたわ、君はゴージャスな子宮を持っているって。卵巣は手榴弾くらい大きいの。私は母親向きの女なのよ。料理も作れるし、銀行も襲えるし、お金の管理だってできるわ。縫い物もできる。ピックルスの作り方だって知ってるのよ。他に何か要求することがあったら言ってごらんなさいな

 料理も作れるし、銀行も襲える。サラの魂の叫びに対して、ウィリアムはひとことだけしか返さない。

服を着ろよ

 あんまりにも可愛そうだ。
 そうやってツンデレサラを袖にしてウィリアムが選んだのは、奔放な比喩表現を弄ぶ不思議ちゃんボビ。ボビは物語が始まった頃、出て行こうとしている。世の中ってのは、追跡と逃走のサンバだ。そしてウィリアムにとってボビ=自分と折り合ってくれない世界の象徴で、彼はすべてをぶちこわす誘惑にやられかけている。
 世界は自分の思うようなものではない。それをどう受け入れるか、というようなことが、余はいかにしてツンデレを捨て、不思議ちゃんに走ったか? という小説全体のモチーフの脇でこっそりと展開するテーマなんだろうきっと。引用されたイェーツのフレーズも格好いい。

我らは幻影(まぼろし)を心の糧とし、心はそれを食み獣と化した。

 ところで、この本、買ったのはもう十年近く前で、そのときは150ページくらい読んで、それからずっと本棚の肥やし状態だった。んで、今回さすがに何も憶えていないので最初から読んだのだけど、驚いたのは少年時代の回想の親の描き方。頭のおかしなウィリアムを受け入れようとしてぎこちなくなっているところがよく書けているなあと感心した。
 面白かった。