家族の肖像(監督:ルキノ・ビスコンティ 1974年イタリア・フランス映画)
ルキノ・ヴィスコンティというと『ベニスに死す』や『地獄に堕ちた勇者ども』など、どうも頽廃趣味の貴族監督というイメージが強くて取っ付き難く、なんとなく敬遠していたのだが、最近イタリアに興味が湧いてきたのでこのイタリア人監督の映画もちゃんと観てみようか、と思い配信で視聴したのがこの『家族の肖像』である。予備知識が一切ない状態で観たのだが、なんとこれがとてもいい映画だった。
主人公はローマの豪奢なアパートに一人静かに暮らす老教授(バート・ランカスター)。物語はその彼の元に、ある金持ちの一家が部屋を間借りさせろと押しかけてきて騒動へと発展してゆくというもの。撮影はこの老教授の住むアパートに限定されるのだが、この部屋部屋というのが美しい絵画と豪華な調度がひしめく煌びやかな内装で、ヴィスコンティの貴族趣味を大いに堪能することができる。ここがまず鑑賞ポイントとして高い。
押しかけてきた金持ちというのも、夫人(シルヴァーナ・マンガーノ)こそ身勝手な口をきく人間なのだが、その二人の子供というのが闊達で屈託のない若者たちで実に印象がいい。しかし間借りすることになるのは夫人の愛人である若い男コンラッド(ヘルムート・バーガー)、という部分で物語がややこしくなる。老教授は最初間借りを頑なに拒むのだが、押し切られる形でこの男を住まわすのだ。
最初は嫌だ嫌だと拒否っていた老教授だが、頻繁に訪れる二人の子供たちの明るさや、間借り人コンラッドの、印象とは大いに違う知的さと繊細さに次第に惹かれてゆき、いつしか心を許してゆくのだ。ここで象徴的に語られるのは、老教授が「家族の肖像」と呼ばれる絵画ジャンルを偏愛しているにもかかわらず、彼自身は家族のいない孤独な老人であるという部分と、しかしそこに間借り人と金持ち家族が押しかけてきて、教授と疑似的な家族を形成してゆくという部分だ。
この二つのアイロニーの在り方は明快過ぎて一つ間違うと陳腐なものになるのだが、ヴィスコンティの描き方にあまりに衒いがないために、逆にスッと心に入り込んでゆくものがあるのだ。そしてこの孤独な老教授というのは、ストレートにヴィスコンティ自身なのだろう。にもかかわらず若い世代に寄り添いたいという心境もまた、ヴィスコンティ自身の心象なのだろう。”頽廃趣味の貴族監督”という印象だったが、どうしてどうして、ヴィスコンティというのはある意味素朴な監督なのではないのか?と思わせるのだ。
そもそも、この物語は有閑階級の教授とか金持ちの家族という設定がなくとも成立してしまうものであり、さらにイタリアが舞台ではなくともやはり成立してしまうのだ。すなわちこれは普遍性を持った物語であるということであり、だからこそ、誰にでも受け入れられられる親しみ易さを持っているということなのだ。まさかヴィスコンティがこんな親しみ易い映画を撮る監督とは思わず驚いたのだ。
もちろん、悠々自適でローマに住まう教授にしても金持ちの家族にしても、20世紀中期におけるイタリア富裕層の頽廃と空虚と捉えることはできるし、夫人の夫がファシストであり、反ファシストで放蕩者のコンラッドがこの時代のイタリアにおいてはみ出し者の烙印を押された人間であるという部分、そしてなぜ彼がこのような人生を選んでしまったのかという部分において、十分にイデオロギッシュな側面は存在する。
1970年代のイタリアは政治的混乱と暴力が渦巻く「鉛の時代」と呼ばれる時期にあり、極左・極右の過激派によるテロ活動が頻発し、社会全体が不安定な状況に陥っていた。それはこの作品に十分反映されているが、しかしそれ自体が主題となった物語では決してないのではないかと思う。そして老教授とコンラッドとのホモセクシャルを匂わす関係性は、やはりこれは愛と孤独についての物語なのだと思わせるのだ。
それにしてもこの映画でヴィスコンティが大いに気に入ってしまった。もう少しほかの作品も観てみようと思う。