ミニミーと過ごす夏の午下がり

昼間から野球中継のアナウンスが洩れ聞こえてくる。もう甲子園が始まったんだな。甲子園は大人の楽しみ。子供にとってはあまり面白いものじゃないかもしれない。子供の頃、甲子園が始まると、もう夏休みが半分終わったような気がしたもんだ。そしてテレビで甲子園を見る時は、他にすることがない時。退屈の代名詞だった。
▼昨日8月6日は原爆の日。空は青く、不完全ながら入道雲が頭をもたげている。

今年は過ごしやすい夏となったが、毎年この頃になると真夏を思わせる天気になるね。そしてなぜか甲子園がよく似合う。この原爆の日から終戦記念日の間くらいは前の戦争のことを思い出してみてもいいんじゃないかな。今の子供たちはどうか知らないが、僕らは登校日にそんな風に習ったよ。まだ日教組が強かった時代の、僕も戦後民主主義の申し子だ。
▼「戦争を一日でも早く終わらせるため」「友軍の戦死者を一人でも減らすため」今なお多くの米国人が原爆投下を正当化している。そんな屁理屈のために多くの日本人が一瞬で黒焦げになったと思うと泣けてくる。そんな屁理屈をおとなしく鵜呑みにして「戦争を始めた我々が悪かった」なんて懺悔してきたのだから被爆して死んでいった人たちが浮かばれない。このアメリカの蛮行だけは絶対に許してはいけないと思う。
▼長男は合宿、妻も遊びに出かけ、残された下の子を連れてすき家に牛丼を食べに行く。昼どきのすき家は家族連れで大混雑していた。業界の大先輩吉野家を逆転した主因は、牛丼にこだわらない豊富なメニューや低価格路線というより、男のソウルフードに家族と女性を取り込んだことだろう。渋谷のセンター街ならためらいなくカウンターに座って汁ダクを注文するブリトニーもいるかもしれないが、地方はまだまだ保守的だ。客層を変えるには店舗改装など思い切った投資が必要になってくる。吉野家は出遅れた。もう再逆転はないだろう。

僕は牛丼のたまごセット、下の子は明太高菜マヨ。牛丼屋で僕は判で押したように同じものを頼む。食べ方も同じ。シンプルな牛丼に卵をかけ、唐辛子と紅生姜を山ほどかけてよく混ぜてかき込む。どうせ味わって食べるようなものじゃない。
▼でも牛丼がこんなファストフードな扱いになったのってわりと最近な気がする。ケータイの登場と同じ頃かな。300円前後のお金って今とても両義的だと思う。みんな安い安いデフレデフレ言うけど、三食牛丼で過ごしても一人ひと月三万かかる。無産者階級のなけなしのサラリーは、こんな風に資本に収奪されていくんだな。
▼家族を解体して個に分断し、家庭を機能不全にする。そして彼ら家庭難民に家庭が担ってきたサービスを提供する。さらにもう一度バラバラになった家族全員をターゲットにする。よくできた貧困ビジネスだ。資本主義の本質があらゆるものをビジネスにすることだとしたら、貧乏人は残らずケツの毛まで抜かれちゃうな。
▼一時期心配された蝉もシャワーのように鳴いている。

風評も洗い流さん蝉時雨

俳句に時事ネタは似合わんなあ。そうこうするうちあっという間に子供が一匹セミをとってくる。

今朝の日経文化欄は詩人蜂飼耳さん。虫カゴの小宇宙についての素敵なエッセイだった。子供の頃虫取りに熱中したけど、標本にはせず逃がしてしまったと書いていた。僕も標本キット付の立派な昆虫採集セットを買ってもらったが、標本は一度も作らなかった。
▼世の中には虫好きと虫嫌いの他に、虫好きの中にも標本派と観察派(飼育派ではない)がいる。蜂飼耳さんは後者。前者には尊敬する養老先生や池田清彦氏など学者が多いようだ。僕は後者。標本キットの注射器にセットの防腐剤を毒薬のように入れて、捕まえたトンボやバッタに手当たり次第に注射していた。使い方がまちがってるね。
▼牛丼のオツリで缶チューハイを買って帰り、下の子のジュースと乾杯して昼酒。

下の子は時々変な歌を歌って家人から迷惑がられている。午後からの学校のプール開放に出かける際も玄関先で何か口ずさんでいたが、何気なく聴いて愕然とした。
♪昔ギリシャイカロスは〜ロウで固めた鳥の羽〜
これは偶然だろうか。今、こんなにタイムリーなお話ってあるだろうか。きっと歌声コンクールかなんかの課題曲なんだろうけど、日本中の子供たち、なかんずくフクシマの子供たちに寓意を聞かれたら、大人たちはなんて答えるんだろう。