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2012-02-21 大人の対応ができない人たちが増えている

大人の対応ができない人たちが増えている

 ワールドメイトの知人と話していて、ネットに書かれているワールドメイトのアンチ諸君の書き込みについて、思うところがあった。

 知人が言うには、ワールドメイトのアンチ諸君に関わらず、ちょっとしたことが不満で、わがままな意見を言い、常識の無い言動をする人間が増えていると言って嘆いていた。

 

 彼はあるメーカーの責任ある立場にいるが、インターネットの書き込みには、苦慮しているそうだ。

 クレームとして上がってくる分には、会社の改善につながって良い部分も多いそうだが、風評被害になるようなものに対しては、どうしようもないと言っていた。

 数からいえばわずかなものではあるが、思い込みが強く、主観的な意見で、事実と違う事でも平気で書く人間がいるそうだ。

 どこの世界でも、そのような人間がいるのは仕方が無いのであろうか。


 しかし、インターネットでは書いた人間の素性が全く見えないので、文章だけ見るとその主張が正しいかのように思えてしまうことが多い。

 本人の素性を見れば、信用できる人なのかそうでないかは、およその判断がつくとは思うのだが、それでも難しいこともある。

 ましてや全くの他人であり、インターネットの中だけのわずかな情報しかないため、人物についての判断がつかないばかりか、誤った情報を知らず知らずに先入観としてインプットしてしまうのだ。


 ところで、知人が言うには、インターネットで大人げない書き込みをする人間が増えているのは、教育が悪いと言っていた。

 たとえばワールドメイトでは、「素朴で素直」な性質が大事だといわれるが、そういう人であれば、そのような大人げない言動をする人は、まずいないということだ。

 多くはわがままに育てられたか、あるいは逆に両親の愛情が足らなかったか、そういう人に多いという話である。

 

 そういう環境の人が、皆そうなるとは思わないものの、育てられた環境と大人げない性質は、無関係ではないだろう。

 大人の分別ある対応が身についてない人は、育った環境の影響で、細やかな思いやりや、物の道理、善悪や、人情の機微を解す部分が、上手く育たなかった部分があると思う。

 そして人を傷つけるようなことでも平気で書けるし、自分自身の言動が、人の道に外れていても気が付かないのだ。


 大人の対応ができないという意味には、もう一つ、大局から見ることができない、そういう意味も含めたいところだ。

 ほぼ間違いなくそういう人は、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」なのである。

 これを言えば、大言壮語しているように言われそうだが、しかし「木を見て森を見ず」のところは、間違いなくあると言える。


 そういうことをつらつら思いつつ、ワールドメイトのアンチ諸君についても、ほぼ同じく大人の対応ができない傾向が見られるのは間違いない。

 彼らの意見には、一見もっともらしく書いてあるものもあるが、極論すると単なるわがままな意見であり、自分勝手な主張の範囲を越えているとは思えない。


 ワールドメイト会員を救うためとか、もっともらしいことも書いてあるが、そのワールドメイト会員から見ると、まったく余計なお世話にしか思えないか、迷惑に感じるものばかりなのである。

 そういうワールドメイト会員の率直な気持ちを理解できないほど、他人の心すら慮ることができないと見える。

 そういう人情の機微、人の感情を理解できない人々が増えていることは、誠に嘆かわしい限りだが、これが今の日本の現実なのであろう。


 ワールドメイト会員の中にも、そういう人がいるのであろうから、救われることを願うばかりである。

 最低でも、そのような人達の主張に惑わされたり、影響を受けない様にはしたいものだ。

 そして誤ったインプットをしない様に、気をつけたいと思う。

2012-02-14 宗教は死の苦しみを救えるか

宗教は死の苦しみを救えるか

 少し前の事になるが、親しくしている知人のご母堂様の葬式に行く機会があった。

 通常みられる仏式による葬儀であったが、知人がワールドメイトの会員でもあったので、ワールドメイトからも知っている人の顔が見られた。

 ワールドメイトは神道だが、仏式でもキリスト教式でも、生前のその人の環境に添った形で勧められているはずなので、特に何の問題も起こらない。


 その時に、喪主の知人と少しだけ話す機会があった。

 ご母堂様は、特には信仰を持たれてはいなかったそうで、もともと信心するタイプの人では無かったそうだ。

 しかし、お亡くなりになる少し前くらいから、なぜか宗教的なものに関心を持ち出し、いままでに無い位、興味を示されたそうだ。

 知人がワールドメイトで御祈願を行うことに対し、口にこそ出さないが、すごくありがたい思いを持っていることが、わかったらしい。

 結局は、医者の予測よりは随分と長く生きられたそうで、ご本人も、どこかでワールドメイトのおかげであると感じてあったそうだ。



 人は死に際して、今まで考えもしなかったことに気が付いたり、見えなかったものが見えるようになるのではないかと思う。

 人は、元気に生きている間は、生活や仕事に勤しみお金を稼ぎながら、人間関係を大事に、家族愛を育みながら日々を送る。

 一般的にそんなものだと思うが、しかし、いざ死と言うものが現実に迫ってきたときに、同じような価値観でいれるとは限らない。

 思い残すことは何もないという人であっても、死と言う事に対する漠とした不安は、どこかに存在するはず。

 死を意識したとき、初めて今まで考えもしなかったことに、気持ちが向かったりすると思う。

 なぜなら、この世においては命の次に大事なお金も、地位も名誉も大事な家族も、何一つあの世にもっていけるものは無いと、心底悟るからだと思う。

 その時になればどんな人でも、人間はなんのために生まれてきて死んでいくのか、死んだあとはどうなるのか、あの世でも変わらないものは何なのか、思いを馳せるのではないだろうか。

 その時に宗教に対する知識、あるいは神仏への信仰を少しでも持っている人と、持っていない人では、大きな差になって現れると思う。



 ワールドメイトでのお話の中で、深見東州先生は、宗教の一番大事な役割のひとつとして、死に際したときのことを挙げられる。

 死と向き合う時、死ねば葬式を上げるために宗教が必要であるからとか、そういう意味ではなく、もっと本質的に宗教にしか扱えない世界であるからだと思う。

 死から逃れることはできないが、死に対して、死に行く人の魂を救い、残された家族の心を救えるのは、やはりこれから先も、宗教が大きな役割を担っていくのだと思う。

 神道でも、仏教でも、キリスト教でもいいが、宗教者の祈りで安らかに眠りについたと思えることが、とても安心に繋がるし、実際にそうなのであろう。

 そして残された家族も、何か救われたような気持ちになり、時間とともにあきらめがつくのだと思う。

 人間の生と死という二大テーマに向き合う時、生の時には意識していなくても、死の時には宗教が無くては、救われるものも救われない気がするのだった。

2012-02-07 惟神(かむながら)の国 日本辺境論3

惟神(かむながら)の国 日本辺境論3


 内田樹氏の日本文化に対する切り口には、とても面白いものを感じる。

 賢い学者が、日本について研究し極めていくと、日本古来からの神道や、あるいはユダヤとのかかわりに行きつかざるをえないことの、良い事例ではないかと感じた。

 内田樹氏は、この本の中で神道について深く触れてはいるわけではない。しかしワールドメイトで学んだ人間が内田氏が論じる日本文化の考察を読んだなら、日本は神に守られた国であることを、改めて確信させるに十分な箇所が多い事に気がつく。

 内田氏は、それを神道や目に見えない存在には求めず、日本人の辺境性から醸成された日本人の体質であり、結果であると最終的に結論付けているが。


 後書きにおいて内田氏は、「日本文化の特殊性」だと思ってあれこれ書き込んでゆくと、どうもユダヤ教思想と出くわすことが多々ありました、と正直に書いていた。

 その具体的な特殊性については、「日本辺境論」を読んでいただくとして、小生などは、ワールドメイトで聞いてきた日本とユダヤの関係が、本当に正しいことに改めて認識を強くした。

 その内容は、ワールドメイトの深見東州先生が、心血を振り絞って解明されてきたもので、ワールドメイトの神事の中でお話をして下さったものが多い。

 あいにく、ここでその内容に触れるわけにはいかないが、ユダヤの謎を正確に解かれたものを聞いているだけに、内田氏の考究の成果に対しても、すんなりと理解ができる。

 もっとも内田氏自身は、大風呂敷を広げて書いただけであると、謙遜して書いてあるようだが。


 ワールドメイトに対するアンチ諸君は、この深見先生が解明された古代の秘鍵に関して、眉唾物のような失礼な発言をしているが、何も知識が無いだけのことである。そのような研究をしている学者は、内田氏以外にもかなりいる。それらを読めば、いいかげんなことを言われてないどころか、学者の知り得なかった部分にまで深く肉薄してあることがわかると思う。


 今回、本文からの引用はしないが、日本人における辺境的な思考や文化は確かにあるものの、それ以上に、日本が神々に導かれてきた国であることに意を強くすることができた。

 日本人が無意識のうちに行ってきたことは、結果として良い結果を生んでいるとしか思えなかった。しかも狡知でも策略でもなく、無意識にやってきたことが、そのようになっている事が多い。


 その最たるもののひとつに、自衛隊についての事を含む、戦後の憲法改正問題についての改憲派と護憲派の論議がある。

 この問題にいまだ決着がつかなかったことが、結果として、日本が戦後に大躍進した結果を招いている。

 アメリカの軍事力の庇護を受けながら、その間に国内経済の発展に全力を尽くせたことが、今の日本の豊かさを築いていることには、だれも異論はないと思う。


 しかし、そうなることを意図して、国内で議論を何十年も戦わせてきたわけではない。

 ということは、このような結果になるように仕組まれた、神の見えざる手があったと、そう確信する以外には無いのではないか。

 明治維新の時にせよ、日露戦争の時にせよ、そのような事例は、日本の歴史の節目にいくつも存在していることが確認できたが、それがなによりの証明になると思えるのだ。

 偶然でも運命でもなく、そのようになるように神が動き、日本人も半分無意識のうちに努力した結果であると思えるのだ。

 もちろん内田氏に言わせるならば、それらは辺境人のなせる特殊な業ということになるようだ。だが、ワールドメイトで学んできた者としては、神々の導きの存在をその奥に感じざるを得ないのだ。


 それ以外にも、内田氏による興味深い分析がいくつも見られるが、そういう意味でこの本は、なかなか刺激的な内容が多かったと思う。


 最後に、日本人の言語の特殊性について、実は個人的にはこれが最も面白い内容であったので、少しだけ紹介してみる。

 日本語において、漢字は表意文字であり、かなは表音文字であるという。表意文字はいわば図形から意味を認識するが、表音文字は音から意味を認識するそうだ。ゆえに、この二つのものは、脳の違う部分で認識しているそうだ。

 このふたつを組み合わせた言語を持つ国は、現在では日本だけであり、唯一ユダヤ人のヘブライ語にも、同じようなことが言えるというのだ。

 詳しい説明は割愛するが、ここにも日本民族とユダヤ民族の不思議な同一性を見るようで、興味深かった。


 ちなみに漢字の「咒」という言葉を見ると、読み方は知らずとも、祈りとか、呪文とか、祈祷のようなものを連想する人が多いだろう。

 そのように漢字は、視覚で何かを連想させてしまうものらしい。

 もっとも中国人は、漢字を音でも処理しているようで、日本人ほど視覚からの処理は、あまりしていないそうだ。


 余談になるが、この「咒」の口は、白川靜教授によって、生き物の口ではなく、「祝詞を入れる器」であることが主張されたそうだ。

 以下は、内田樹氏のブログより引用する。


白川先生の漢字学は、古代中国においては、地に瀰漫していた「気分の悪いもの」を呪鎮することが人間たちの主務であったという仮説の上に構築されている。

古代の人間はそのほとんどの時間とエネルギーを「邪気」を祓うために費消していた。

それが有名な白川先生の「サイ説」である。


「サイ」というのはこのフォントでは再現できないけれど、英語のDの弧の部分を下向きにしたかたちである。

この文字を後漢の『説文解字』以来学者たちは「口」と解した。

白川先生はこれを退け、これが呪具の象形であるという新解釈を立てた。

「この基本形であるサイの従来の解釈が誤りであるとすれば、その系列に属する数十の基本字と、その関連字とは、すべて解釈を改めなくてはならない。誤解のもとはサイを口の単なる象形と解し、文字映像におけるその象徴的意味を把握しえなかった点にある。」(白川静、『漢字百話』、中公文庫、2002年、41頁)


白川先生によればサイとは「のりとを入れる器」である。

だから「告」は「木の枝にかけられたサイ」である。ゆえに、「告げるとは神に訴え告げることである」。

サイを細長い木につけてささげると「史」になる。

聖所に赴くときは、大きな木にサイを著けて吹き流しを飾り、奉じて出行する。

「呪」はもともと「サイ」と「兄」の合字である。

兄は祝祷の器サイを奉じて祈る人をいう。


古代中国における戦いはなによりもまず呪術による攻防として行われた。

呪術の目的は攻撃と防禦にある。その最初の方法は呪的な言語によるものであったが、それが表記形式に定着したものが文字であった。開かれた祈りは告であり、隠された祈りは書である。攻撃と防御の方法は、その呪能を託されている祝告の器であるサイに対して、加えられるのである。」(同書、44−45頁)

それゆえサイにはさまざまな武具が防禦のために動員された。

サイに鉞を加えると「吉」(呪能をここにとじこめる)になる。

盾を加えると「古」(固く永続する)になる。

戈を加えると「咸」(完全に終わる)となる。

「みなその祝告の呪能を保全するための防禦的方法である。」(45頁)


一方、敵対する陣営の呪能的防衛戦を破るためにはサイを汚す文字が用いられる。

「舎」(すてる)と「害」(そこなう)はいずれも「長い刃をもって器を突き通す形であり、そのような方法で呪能は失われると考えられた。」

サイに水をかけることも呪能を奪う方法であった。

だから、「沓」は「サイに水をかけ、加えて踏みつけること」である。

古代中国の呪術戦争はこのように呪具と漢字によって展開したというのが白川先生の説である。


 このような研究が行われていたとは知らなかったが、類似した話をワールドメイトでも聞いたことがある。

 それは、インドの梵字についてのお話だ。

 ワールドメイトでは、霊璽というお札のようなものに、梵字で名前を書く。

 すると漢字で書いたよりも、いっそう神仏の霊力を感じる。そのような体験をしたワールドメイト会員は、たくさんいる。


 梵字は仏様そのものを表わしていて、その文字自体に霊力があると聞いた。

 梵字には表意文字としての意味以外にも、不思議な力があるということになる。

 ワールドメイトでは、梵字を役に立つレベルで使いこなす方法まで教えてもらえるが、本当に凄いことだと思う。

 梵字の霊力を授かりたい人のために、「梵字の伝」という講義もあった。


 少し余談になったが、文字の由来を知るにつけ、古代の人々はやはり神人合一していたとしか思えない。

 どう考えても、それ以外に、これらの文字の由来は、説明がつくものではないと思う。

2012-01-30 日本人の学びの伝統―日本辺境論2

日本人の学びの伝統―日本辺境論2

 先日行われたワールドメイト熊野神業では、心に染み入る温かいメッセージがとてもありがたかった。

 ワールドメイト会員、一人一人の心の内を、神様はしっかりご覧になっていることに感動した。


 ワールドメイトでは、「神は大きく叩けば大きく応え、小さく叩けば小さく応えられる」、ものであると言われている。

 しかし熊野の神に関しては、大きく叩かねば、けっして喜んで下さらないようだ。小さな願いなら、わざわざ熊野まで行く必要も無いという事のようだ。

 天下国家を語れるような人間に、ワールドメイトで学ばせて頂いているのだから、最低でもなりたいと思う。



 ところで、今回は前回書いた日本辺境論の、第二弾という内容になるかと思う。

 早速だが、前回引用した内田樹氏の著書、日本辺境論では、日本人の学びの具体的な例として、張良の子弟論が引き合いに出されていた。

 少し長くなるが、省くとわかりにくいので、長めに引用させていただく。



 これまで教育論で何度も引きましたけれど、太公望の式略奥義(おうぎ)の伝授についてのエピソードが『鞍馬天狗』と『帳良(ちょうりょう』という能楽の二曲に採録されています。これは中世の日本人の「学び」というメカニズムについての洞察の深さを示す好個の適例だと思います。


 帳良というのは劉邦(りゅうほう)の股肱(ここう)の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)をおとす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。


 『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。

 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像)。


 沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意を会得された。

 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修業を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。


(中略)

 張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。


 この逆説は私たち日本人にはよく分かります。気の利いた中学生でも分かる。でも、この程度の逆説なら「気の利いた中学生でも分かる」のは世界でかなり例外的な文化圏においてである、ということはわきまえておいた方がいいと思います。


 私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率のいい装置を開発した国民です。私はそう思っています。辺境の列島住民が「最高の効率で学ぶ」技術を選択的に進化させたのはある意味では当然すぎるほど当然なことだからです。辺境民がその地政学的地位ゆえに開発せざるを得なかった「学ぶ力」が日本文化とその国民性の深層構造に(「執拗低音」のように)鳴り響いている。



 ワールドメイトでは、無形の世界に触れて学ぶ上で、「禅」が重要であると言われている。

 その「禅」の中でも、臨済宗の臨済、白隠は、神仕組みに大事な役割があると、ワールドメイトでは言われていた。

 臨済と言えば、「仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ」という言葉が有名である。

 また、他にも数々の名語録が、臨済録の中には残っていて、「語録の王」と言われている。

 

 臨済の言行録なので、当時、臨済が激しく弟子や雲水に迫り、赤肉団上(肉体)から一無位の真人(御本霊、御魂)を見性させようとする迫力ある姿を、ありありと感じ取ることができる。

 はじめて読む人は、よく意味がわからないであろうし、また、殴る蹴る打つの激しさに、度胆を抜かれてしまうかもしれない。


 禅の話をなぜここで引用したかというと、内田樹氏の言う張良の子弟論の中に、その禅的な機働きを感じたからだ。

 禅には、「不立文字」「教外別伝」・・という、「達磨の4聖句」というものがある。

 真髄は文字や言葉では表せない、教えや理屈では伝わらない、という意だと思われるが、黄石公が張良に兵法極意を伝えたときも、このような理屈でないところで伝えたのではないかと想像する。

 あるいはワールドメイトでは、以心伝心で、霊を以て霊に伝える神法伝授というものがあるが、それに近いかもしれない。

 いずれにしても無形の世界で伝えるものであり、禅も老荘思想も、日本における神道も、そこに本質があると言える。

 神道は民族宗教と言われているが、キリスト教やイスラム教、仏教のような宗教教義が体形づけられてはいない。

 神道は、教えでなく道といわれるように、言葉による教えではなく、無形の道を体得するということだと思う。

 今は、日本でのみ「禅」が残っているが、禅の影響を受けて、茶道弓道武士道などの、○○道という概念が生まれている。老荘思想においても「道」が重要なキーになっている。

 その「道」が継承され、唯一現代まで残ってきたのが日本である。内田樹氏の言う、辺境としての日本人の学びとは、実はその日本人の「道」と無関係ではないと思う。


 何が言いたかったかというと、ここで前回に引用した日本人の学びの特性である、「努力とその報酬の間の相関を予見しない」というところに戻ってほしい。

 たとえば弟子師匠に向かって、「毎日便所掃除ばかりじゃ面白くないから、何か有意義なことをさせてください」というような、そういう嘆願は本当の師弟間では許されないと書かれていた。

 そのように嘆願する自由もあるのだが、それをやってしまえば、学びのモチベーションは致命的に損なわれるというのが、日本人の伝統的な考え方であるというのだ。

 仕事でも、昔の人は文句ひとつ言わずに、会社のためにどんなことでも喜んで働いたものだと、小生も親より聞かされたことがある。そのあとに、最近の若い子は・・とつながって辟易したものだが、今にして思えば、ここに大事な教えがあったことに気が付く。

 本来の良き日本人の特性は、そういう行動や考え方にあると言えそうだ。


 そして同じことが、神と人の関係においても言えると思う。

 ワールドメイトのアンチサイトを読むと、師である深見東州先生や組織、神様に対しての批判と不平のオンパレードである。逆に言うと、自分の望みや嘆願ばかりが強く、それが十分に叶わない裏返しの行為であると思える。


 そのような態度では、真の学びも少なく、大きな功徳も無く、得るものが少ないのは、日本人の歴史的に見た資質から言っても、当然であることがわかると思う。

 逆に言えば、師や組織や神々に不平を言うどころか、どこまでも素直に喜々として謙虚に学ぶ態度が備わっていれば、やがて大きな悟り、大きな学び、大きな功徳を頂くことになる。

 小生の周りのワールドメイト会員を見ても、この法則が、わずかな例外を除いてほぼ当てはまっていると感じる。



 最後に、日本では、神仏のおかげを感じる人はたくさんいるが、海外の宗教では、おかげと言う現世利益の存在をあまり聞かない。ここにも日本人と欧米人の資質の違いが、大いに関係しているのではないだろうか。

 本当は海外の宗教におかげがゼロというのではなく、ルルドの泉に代表されるような奇跡体験などが、カソリックにもある。それでも日本の神仏のおかげ体験ほどではないと思う。

 多神教と一神教など、いろいろな要因の違いもあると思うが、前回に書いた欧米的な考え方が、おかげの出方にも、やはり影響しているように思える。

 それを考えると、欧米的な思考になってきている最近の日本人の傾向に対して、少なからず危惧を抱いてしまう。

2012-01-25 日本人の体質―日本辺境論

日本人の体質―日本辺境論

 ワールドメイトの深見東州先生は、ワールドメイト会員に、最低月4冊くらいの本を読むように勧められている。

 特に責任のある立場の人間になれば、活字読解力が無ければ、どうしても頭打ちになってしまい、そうなると責任を果たせなくなるからだ。

 誠に言われる通りであると思う。そのことを言われたからというわけではないが、さっそく近くの本屋に行き、内田樹氏が書いた、日本辺境論という本を購入した。

 この本は、2010年の新書大賞で第一位に選出された本ということなので、読んでみることにした。



 内田樹氏の著作を読むのは初めてだが、氏の政治経済、歴史認識に関する見解には、かなり首をかしげたくなる記述もある。

 また、日本人の論考についての内田氏のたどりついた結論にも、無条件に賛同するわけにはいかない。

 しかし、日本人と宗教について考える上では、ヒントになる興味深い点がいくつも見られた。さすが、多くの人に読まれた本だけあり、ユニークな視点を多数提供してくれたことには感謝したい。

 今回も含めて、何回かに分けて、その中から感じたことを書いて見たいと思う。

 まずは辺境人の学びについて思ったことから、書いて見ることにする。



 内田氏によると、日本人とユダヤ人だけの学びの特性として、「努力とその報酬の間の相関を予見しない」ことであると述べている。

 欧米人が何かを学ぶときには、学び始める前に教える者に対して、「あなたが教えることの意味と有用性について一覧的に開示せよ。その説明が合理的であれば、学ぶにやぶさかではない」というような、わりと強気の態度で出るそうだ。

 対して日本人は、まずこれから学ぶことについて、事前に適否をチェックしない。ゆえに、この人が、師として適切であるかどうかについても吟味しない、という。

 そしてその方が、知的な前進、現状突破につながることを、古来日本人は熟知していたという。

 それは日本が辺境であったために、そのような発想が生まれてきたということを、多くの実例から検証し、裏付けている。また、そのような辺境人である日本人の学びは効率が良いというのが、最終的な結論になっている。


 ワールドメイトで、逆の立場から見た、これに類似する話を深見東州先生から聞いたことがある。

 欧米ではジョブ・ディスクリプションを示し、この仕事の中身がどのように役に立ち、これが何年たったら、あなはこのようになることができると言う説明がなされるようだ。励ましながら、具体的な夢と希望を与えるやり方をするそうだ。そうでなければ欧米人は納得して働かないそうだ。

 対して日本人は、最近は欧米化してきたと言うことだが、そのようなことは何も具体的に説明されなくとも、黙って言われたことに対し、懸命に最善を尽くして働いてきたそうだ。

 なるほど、そう言われてみればそうなのかもしれないと思う。


 また、予備校で生徒を教える体験から、人材の育成は、大きく3段階に分けて教育するという話も、これに付随する話なので紹介しておく。

 まず優秀な生徒は、どこが足りない、あそこが足りないという事を指摘すると、喜んで越えようとして伸びるそうだ。そういう足りないところを厳しく指摘して刺激してあげることが、やる気につながるということだ。

 真中の生徒に対しては、厳しくすると同時に、時々褒めてあげるそうだ。

 そして、その下のクラスの生徒に対しては、ずっと褒め続けるそうだ。誰でもできるような事でも、すごいじゃないかと褒めてあげることで、やる気になっていくからだ。一人歩きができるようになるまでは、そのように褒めてあげるそうだ。

 そういう話を、ワールドメイトでのお話の中で聞いたことがある。


 以上のような話からすると、ジョブ・ディスクリプションのような説明がなくとも、一生懸命に働いていたころの日本人は、今よりもずっと本来の優秀な資質を発揮していたと言えそうだ。

 最近の10代20代がけっして優秀じゃないとは思わないが、かなり欧米化しているようで、日本人の持つ本来の良い資質が発揮されにくくなっているのかもしれない。



 それから感じたのが、ワールドメイトに対して、アンチな事ばかり言ってくる諸君がいるが、彼らはこの悪い意味での欧米化した人種そのものではないだろうか。


 今の日本の若者の性質は、欧米人から根性を無くしたようなところがあると言う話を、ワールドメイトで聞いたことがある。

 そして、日本の組織には元来、詳しい説明も無く、「私を信じて黙ってついてきてくれ」的なところがある。

 これは、先ほど内田樹氏の書いていた、日本人の辺境的な学びから出てきた昔からの日本的な体質である。

 そんな土壌がある日本において、忍耐力や辛抱の無い、欧米的な考えに染まった日本人が増えていけば、当然そこに軋轢が生じるのは目に見えている。


 ネットにおける一部の日本人の無節操な書き方を見ていると、そういう背景が、そうなっている要因の一つとしてあると思えてならない。

 彼らは、話が違うじゃないか、おれはそんなつもりで金を出したんではない、働いているんではないと、騙されたような気持ちになって、アンチ的な発言になっている気がする。



 宗教関係に関して言えば、ワールドメイトに限ったことではないが、日本の宗教団体は一般的な組織よりも、いっそう「努力とその報酬の間の相関を予見しない」信者の性質の上に成り立ってきたものだ。

 宗祖の言うとおりにするのが正しい信仰であるという、それが普通なのである。

 実際にそれはその通りであり、それが無ければ宗祖がいる意味が無い。また、そうでなければ、正しいおかげも出ないことを、宗教を信じる信者側もよくわかっていたのだと思う。

 信じる者は救われるという、無批判に近い形で信じるものが神仏であり信仰である。だからこそ、やがて大きな功徳が現れることを、無意識のうちに感得していたのが、古来の日本人であったと言える。


 しかしその部分を理解できなくなった日本人が、戦後、徐々に増え始め、それが今のネットの文化の一翼を担うに至り、あらゆるものに批判をぶつける文化にまでなってきたのではないだろうか。

 一方で新宗教の中の一部の団体に、大きな問題をおこすところがあったことも、そのことに拍車をかけてしまった要因の一つであったと思う。


 ワールドメイト会員になればすぐにわかるのだが、ワールドメイトは、日本の宗教団体の中で、おそらくどこよりも詳しく様々な具体的な意義や解説を聞けるところだ。

 それは民主的な、現代感覚に優れた宗祖である深見東州先生のおかげだと言えるが、「寄付お玉串を捧げる意味は何か」「なぜご奉仕をする意味があるのか」「この神事を行う意義は何か」などなど、ほとんどのことについて、おりにつけ何度も何度も具体的にわかりやすく意義を話してくださる。

 おそらく、そこまでの具体的なお話は、他の組織ではほとんど聞くことができない。そんなことは、何も説明が無くても、黙って従うのがあたりまえなのだ


 ただしワールドメイトは、大変多くの素晴らしい活動があるため、また、かなり深い高度な教えもあるために、それらの話を十分に消化しきれていない会員もいるのが実情だ。

 そして宗祖の深見東州先生は、一般的な宗教の枠を超えた、大変大事な要職をいくつも世界中で持たれている超多忙な方だ。なのでそれを解決するには、コアになる人材が多く育つ他に方法は無いと思えるが、徐々にそういう体制が築かれていくものと思われる。

 そうすれば、いくら欧米化してしまった人間がワールドメイトに入会しても、アンチになる人はいなくなるだろう。また、それに伴い、会員も爆発的に増えていくことは、間違いないと思われる。



参考:ジョブ・ディスクリプションについて

『人づきあいで人を動かす』 深見東州著 たちばな出版より、引用



「黙ってついてこい」式の指導法はもはや通用しない


 例えば、ある従業員の長所と短所を理解したとする。その場合、短所についてはもう諦めるしかない。短所を諦めて、いかに長所を伸ばしていくか。過度の期待をかけず、いかに少しずつ伸ばしていくか、ということがポイントなのだが、それにはまず、今の若者にはどういうタイプが多いのかそれを理解しておく必要がある。


 では、いまの若者はどうなのかというと、いわゆる新人類。その新人類とは、欧米の社員の根性がなくなった奴、これが新人類だと思って間違いない。野心を持ってると言っても大したことがないし、自己主張といっても大したことがない。さりとて、日本的な忠誠心を貫くかというとそうでもない。言うなれば、欧米の社員から根性と迫力を取り除いた根なし草。これが新人類と考えていい。


 野心があって自己主張もするんだけれど、欧米人ほど根性と迫力がないものだから、何をやってもやり遂げられない。そういう新人類を相手にする場合には、忍耐と愛情プラス「こいつは新人類なんだあ」という理解と諦め、これが必要だ。手っとり早く言えば、褒めて讃えて持ち上げる。そうでもしない限り居つかないし、育たない。今はそういう時代なのだ


 厳しいお父さん、お母さんに育てられ、逆境を雄々しく乗り越えていくだけの強い精神力と根性を身に付けている若者はあまりいない。時にはいるかもしれないけれど、それは宝物のような人で、ごくごくわずかでしかしかない。豊かな時代、根性のない時代、それが現代という時代であり、中途半端に欧米化された中に日本の古来のものが残っているのが、今の日本社会である。日本古来のよさが薄まってしまい、欧米のよくないところがこれまた薄まって入ってきて、いいところもあるんだけれど日本に徹しきれず、欧米にも徹しきれてないという現代社会。その中で育ってきたのが新人類なのだ


 それでも魂の奥には日本の精神が息づいている。だから、ゆっくり時間をかけて育てていけばわかってくるのだが、昔流の「黙ってついてこい」式のやり方では新人類は育てられない。褒めて讃えて、野心と自己主張を認めてやって、ジョブ・ディスクリプションを示してやらなければいけない。


 「君の役割はこうでね、こういう仕事をしていくんだ。これを1年か2年やったら、次はこんな仕事があるからね。見たところ、君にはこういう長所があるみたいだし、将来性があると思うから2年間、これを辛抱しなさいね」

 「5年辛抱したら係長か課長代理か課長になるから、そうしたらいまの給料がこれくらいになって、部下が何人ぐらいつくようになるからね。海外にも行けるしね」

 「部下は、上司や目上に対してこういう態度で接しなければいけないよ。2年たったら君にも後輩ができるはずだ。そのときのためにも今、部下の育て方を勉強しなければいかんよねえ」

 「重要なポジションの人間は管理部門と営業部門、両方の仕事を把握してなければいけないんだ。両方きちんとできたら取締役になるんだよ。それにはだいたい10年ぐらいはかかるよ。ウチも会社が大きいわけではないから、君のような優秀な人が10年やったら、きっと取締役になれるよ」


 そのように、ジョブ・ディスクリプションをはっきり示して、夢と希望を与えつづける必要がある。それをやらなかったら、

 「何のためにこんな会社にいるんだろうか、何のためにやっているのだろうか、こんな会社にいたって将来がないじゃないか」

 「何で忍耐しなければいけないんだ。こんな仕事に何の意味があるんだろうか」

 と、仕事に対する興味とか意義を見出せなくなる。すると意欲を失って、すぐに辞めちゃうわけだ。なぜこんなことをやらなければいけないのか、その意味がわからない。興味が湧いてこない、将来性がないと思う。この3つの理由で辞めていくのだ。


 だから、「黙ってついてこい」とか「おれの言う通りにやればいいんだ」というのは、もはや絶対に通用しない。中小企業にやって来る若者は、単なる新人類ではないのだ。新人類プラス屈曲型。そういうのが中小企業に来るのだから、旧来型の指導法はこの際、あっさり捨てたほうがよい。


 これほどまでの時代の変化。それが読み取れない中小企業の社長は、どんな人も使えない。中卒とか高卒とか大学の中退で、裸一貫でやってきた社長は、ジョブ・ディスクリプションの論理と説明の仕方を勉強しなければいけない。相手のレベルに合わせて「なるほどそうなのか」と納得できるようにわかりやすく、かつ忍耐と愛情をもって説明できるように自分を磨かなければいけない。


 それができなかったら、それはもう社長自身の能力的限界としか言いようがない。ではどうしたらいいのか。くどいようだが、ジョブ・ディスクリプションを明確に提示するしかないのだ。

2012-01-19 日本人に眠る神道的DNA

日本人に眠る神道的DNA

 ワールドメイトでよく出てくるお話に、産土力の存在というものがある。

 簡単に言うと、その土地に住まえる御神霊の有形無形の働きと言える。

 御神霊の息吹を受け、長い時間をかけて、その土地の地形や景観などが作られていくようだ。


 御神霊がいなくなると、環境が変わり、たとえば美しい景観が徐々にさびれて風化するとか、そのようなことがおきるようだ。

 人間が人為的に自然環境を壊した結果のようにも思えるが、実際は人間が自然を開拓し俗化してしまう過程で、神々がいなくなることによりおきるのが本当の原因と言えそうだ。


 それぞれの地域においては、地球規模での大気の循環、潮流などの要素が加わり、気候や気象などの自然環境が特徴づけられていく。

 あるいは大陸プレートが動き、地震火山活動などにより、地層や地質などが形成されていく。

 そのようにして形づくられた、その土地における気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称を、一般に風土と呼ぶ。


 和辻哲郎は、その代表作「風土」において、東洋、中近東、西洋を、それぞれの自然環境に基づき、モンスーン型、砂漠型、牧場(まきば)型の三つに大別した。

 そして、それぞれの風土における文化の違いについて、独自の考察している。

 簡単に言うと、モンスーン型における人間の存在は、忍従的、受容的であるとし、砂漠型では闘争的、対抗的であり、牧場型では自然の従属、従順、合理性が生まれるとしている。


 和辻哲郎によると、「風土」は単なる「自然」ではないと言う。

 人間が自己の存在を見出す文化、宗教、風習などの表現や、体質を生み出す何かを自然の奥に感じているように感じる。その歴史的、空間的存在すべてを含めて風土と呼んでいるようだ。


 ワールドメイトで学ぶと、その自然の奥にある、文化や宗教、風習、体質などを作ってきた何かが、実は産土力という存在であることがわかってくる。

 ワールドメイトには「自然は神なり」という言葉がある。いくつもの意味があると言われているが、人間に影響を与え体質を作ってきた自然、風土が神そのものと言う意味にもとれる。

 和辻哲郎は、それを神とは言ってはいないが、言葉で説明できない、超自然的な何かを感じていたことは確かであろう。

 それが神なる働きであるとするのに、それほど矛盾を感じる日本人は少ないのではないだろうか。

 

 そういうことであれば、人間は、このように神々が住む自然を、もっと大事にしなければならないと思う。

 そうでなくては、風土を作ってきた神々の働きが弱くなり、その結果、人間の文化や営みそのものにマイナスとなるのは間違いないと思えるからだ。

 

 ただし、ここで断わっておく必要があるが、神道ではすべての山や森に神が住んでいるとは言っていない。 その点はアニミズムとは異なり、聖なる山と俗なる山を区別している。

 そして、その区別があったおかげで、日本における近代化と自然が共生できたのではないかと思う。

  日本では昔から神が住むと言われる神山、霊山は大事にされ、そうでない普通の山に関して、主に開拓されてきた。

 自然を開発するときに、そのことが考慮されてきたことが、日本の自然にとっては救いだったと言える。

 

 日本の神道に限らず、自然と共生する宗教、たとえばヨーロッパにおいても、キリスト教がひろがる以前は、アニミズム的な自然崇拝の信仰が主であったことが確認されている。

 しかし今では、その中心のひとつであったドイツなどでは、往年のような森がかなり無くなってしまっていると聞く。

 それを考えると日本でも、自然環境が損なわれてきたと言われてきたものの、世界的に見ると、森や川や海などの美しい自然が多く残っている。

 特に日本アルプスや東北の山間部など、人口も少なく寒冷地でもあるため、昔ながらの自然が数多く残っている。

 そのように神々が居つく自然の環境が、ある程度保持されてきたことは、日本にとって幸いだった。だからこそ、独特の日本の文明や体質も、今日まで保持されてきたのかもしれない。

 そして近い将来日本が世界の盟主になっていく、神霊的な土台も保持されたままになっていることだろう。



 ワールドメイトでは、日本の山々峰々、森や海には、日本の神々はもちろん、海外の神々の存在すらあると聞いている。

 世界中から神々が、日本に集われている、と言っても良いかもしれない。

 これからワールドメイトで神事が行われる、熊野、磐梯、霧島なども、そのような日本を代表する大神域である。

 そのような神域が日本に残されてきたからこそ、ワールドメイトの神事で、その神域の神威を奮いおこすことができてきた。

 そのような神域を守ってきてくれた、われわれ日本人の先祖にも、大いに感謝しなければならないだろう。


 ほとんど無自覚だとは思うが、そのような先祖からの、神居ます自然を大事にする神道のDNAが、現代の日本人の中にも受け継がれているように思う。

 無意識であるにしても、日本人の血の中には、神の働きを守ろうとする何かがあるのかもしれない。

 無宗教と答える日本人は多いが、神山霊山の自然を破壊するような人はいない。それどころか、そこに何か畏敬なるものを感じる人が多いことでも、それが言えるのではなかろうか。

 そうであれば、今、その守られてきた神域を奮い起すことで、神威を発動させ、日本や世界を救うことは、日本人の古来からの悲願であるという気さえしてくる。

 そのような深層意識を持つ日本人を代表し、ワールドメイト会員は、ワールドメイトの御神業へ参画させてもらっているのかもしれない。

 感謝と喜びで以て、ワールドメイトの一つ一つの神事に参加していかなければと思う。

2012-01-13 真心や誠意があってお金も生きる

 真心や誠意があってお金も生きる

 小生が、ワールドメイトの深見東州先生のことを、尊敬し本物であると信じる理由の一つに、深見東州先生から温かい真心、本当の誠意をいつも感じることがあげられる。

 逆にそんな素晴らしい深見東州先生に対して、アンチ的な人間もいるのだが、小生が彼らの言うことを信用しない理由は、彼らに誠をほとんど感じ無いことが大きな理由だ。


 彼らはワールドメイトと深見東州先生に対する、ささやかなジェラシーからか、深見東州先生のあらゆる才能や活動に難癖をつけて、懸命になって否定にかかろうと試みている。

 もちろん、そのような事をしても、徒労に終わることは間違いないと思うのだが、使い方によっては一国を改革する力にもなる反面、使う人間によっては、限りなく犯罪の温床になるネットを利用し、限りなく悪い使い方の典型を行なっている。


 何事も表と裏があり、陰と陽と言っても良いが、物事にはプラスの面とマイナスの面が存在しているようだ。

 神の一局面と言われている科学は、善用すれば限りなく人類の進歩向上につながり、平和と住みよい社会に大なる貢献をする。科学進化無くしては、人類の進歩は考えられない。

 その一方で科学を悪用するならば、効率よく殺傷できる殺人兵器の開発へと駆り立て、挙句に人類そのものを滅ぼす事態にさえ繋がるものだ。

 インターネットもハイテク科学技術の一つであり、その出現以来、人類社会は大きく進化をとげている。

 その一方で、インタ−ネットによる新たな犯罪行為や、ほとんど犯罪に近いような非道徳的行為も蔓延している。

 使う者の倫理観が問われているのは、今に始まったことではないが、科学にもうひとつの神の局面である「善」という要素が加わらなければ、科学も完成しないと言うのは本当であった。

 ワールドメイトで言う、神様「真」「善」「美」の三つの局面は、三つの局面全てが揃って本物になると言われていた。ワールドメイトの深見東州先生の言葉に、ずっしりと真実の重みを感じる。

 インターネット世界に、「善」の具体的要素として、倫理、道徳、もちろんそれらも本物でなくてはならないのだが、いち早く取り入れられて完成することが望まれる。

 そして、その善の中に共通する存在の、「真心と誠意」こそが、特に大事ではないかと思う。



 それから、深見東州先生の数々の素晴らしい実績に対しては、否定のしようがない事実ばかりだ。また、世間の多くが認めるものでもあるため、アンチ諸君も思うように否定することができない。

 そこで、すべてを金のせいにする。つまりお金で名誉や実績を買っているとする偽計を持って、あるいは詐術を弄して、これらの実績に泥を塗ろうと懸命のようだ。

 しかしこれらも、ある程度常識的な見識さえあれば、その欺瞞に満ちた内容は簡単に喝破できる。

 それほど卓越した眼力が無くとも、世に中で真剣勝負で営業をやってきた人間、あるいは額に汗して一から実績を作る努力をしてきた経験がある人間ならば、一瞬で、その理屈が誤謬を犯していることを見抜けるはずだ。


 素晴らしい実績とは、お金が必要であることは勿論だが、資金さえあれば、すべて上手くいくと言うものではない。

 人間同士、誠意と真心を持った信頼関係に基づく付き合いが、そこには必ず介在している。

 仕事における営業でも、およそ同じようなレベルの内容なら、より誠意や真心を感じる相手から取引をするように。

 それと同じではないが、誠意や真心が実績を築く上で不可欠であることは、この場合にも言えると思う。

 人間には善なる感情があり、お金の損得だけで生きているのではない。優秀な人材、社会で上に立つ人間であればあるほど、お金よりも、そのような相手の真心や誠意を大事にするし、信用と信頼関係をベースにお付き合いをする人が多い。

 何事も金、金、金、でしか動かないような、金に汚い人間ならば、誰も尊敬しない。そのような人間は、まともな組織でトップに立つことなどできない。

 そのような人間がトップになっても、やがてメッキがはがれるように失墜するであろう。逆に言うと、そのような人間は、広く人の信用を得ることが無く、トップになることができないものだ。

 巷には大企業が悪のように言う人間もいるが、大企業のトップにまで上りつめる人間で、そのような倫理道徳が欠落した人間はほとんどいないと思う。逆に仏のような人が多いとは聞く。もし、人間として肚が黒い人間がトップになったとすれば、いずれは悪事がばれ、信用を失い去っていくと思われる。

 なぜならこの世には、ものごとを正しい方向へと正す正気が流れている。たとえ一時悪がはびこっても、それは「悪強くして天を衝く」に過ぎない。

 いくら悪が強いように思えても、悪は一時しか続かないものだ。

 特に現代の、民主主義の時代になればなるほど、その傾向は早いと思う。


 正気の気に関しては、こちらを参照してほしい。

正気と天地の法則 - ワールドメイト 爆風の言霊資料室

 

 小生が、金権政治の権化のごとく批判される田中角栄を、歴代の日本の総理の中でも、もっとも有能な政治家の一人であったと信じるのも、同じような理由からである。

 政治にお金は必要であり、しかし、お金があれば政治が上手くいくとは思えない。

 政治家の全人的魅力や、政治家として優れた才覚なくして成功はありえない。。


 話を戻すが、政治家でもなく、宗教家である深見東州先生の場合は、より完全にお金に関してクリーンすぎるくらいクリーンであると思う。

 ワールドメイトにはお布施の強要が無いが、真心が込もった自発的な寄付でなければ神仏への本当の御布施にならないと、深く理解されているからだと思う。

 そのような形で頂いた寄付を、少しでも社会の役に立つ貢献に使おうとされることはあっても、ワールドメイトの威勢誇示拡大のために使われているとは思えない。

 その一点だけでも、宗教者として、十分すぎるほど信用するに足りる。


 しかし、いくら社会貢献を謳っても、打算によって社会の組織とお付き合いしようとすれば、やがて見破られ、いきずまっていくであろう。

 そういう個人の私利私欲のため、教団の利害得失のために一流の組織や人物に接触すれば、名誉を授かるどころか相手にされないのが、厳しい現実であると思う。

 それで、もし平気でお付き合いをしてくるならば、二流三流のまがい物の組織や人物なのであり、世界的な要人として、信用ある立場につくような人物ではありえない。

 一国を代表する立場の政治家同士であれば、互いに国益を守るための深慮遠謀の駆け引きもあるだろう。だが、深見東州先生は民間人であるから、互いにその必要も無いと言える。



 深見東州先生のプロフィールや最近の活動を見れば、そのような国内外の要人、あるいはその世界におけるトップの人物とのお付き合いが、主になっていることが見て取れる。

 別に、相手が偉い立場の人間と付き合っているから、単純に深見東州先生は凄いと、言いたいのではない。

 ワールドメイト会員の中には、それを単純に凄いと言う人もいるけど、逆に深見東州先生とお付き合いができる、世界的なビップこそ凄いと思うのだが。


 それは良いとしても、どこがどのように素晴らしく、すごい事なのかをよく理解しておきたいものだ。

 そうすればワールドメイトに対するアンチ諸君の言っていることが、たわいもない勘違いか、さもなくば単に虚勢を張った夜郎自大な発言であることが、よく理解できると思う。

2012-01-08 経済を知るために政治の勉強がいる

経済を知るために政治の勉強がいる

 ワールドメイトの神事における深見東州先生のお話で、政治がわからなければ経済がわからない、という意味の事をさらりと言われていた。

 一見すると何でもない、当たり前の言葉に聞こえるが、この言葉を聞いて、経済の動向に対する長年の疑問に、なるほどと納得がいった。


 一般に経済学者や経済の専門家などは、自身の専門である様々な経済学の論理と市場の趨勢を分析し、判断し、経済予測をしているようだ。

 しかし、重大な経済の動きをぴたりと予測できた経済学者や評論家を、いまだかつて聞いたことが無い。

 終わった後の事を、後付的な論理でなんとか整合性を保ちつつ、もっともらしく説明することは可能なようだ。

 しかしながら未来の予測ばかりは、経済学者の専門知識と分析力を以てしても、誰一人として正確な予測を行ったという話を聞かないのだ。


 ワールドメイトで聞いた話では、一般的に経済学者が2人以上集まると、必ず反対の事を言いだすという話が巷にあるそうだ。

 そして最終的に、どちらの言うことも間違っていたとなるのだそうだ。


 結局、いろいろな見解や予測が飛び出せば、どれかは近くなったり、あたったように見えることはあるだろう。

 しかし、それでも多くは外してしまい、時々近い時もあるという程度のようだ。

 もし正確な予測と見解ができる経済学者がいるならば、今頃は時の人となって、ノーベル賞どころか世界経済の救世主的存在になれるかもしれない。

 リーマンショックのような不測の事態を、経済学者や金融の専門家の権威が正確に予測できてさえいれば、未然に防ぐ手段もあったと思われるだけに、いつもそこが素朴な疑問として感じるのだった。

 もちろん経済とは、人間社会の営みという数値化できない、生きもののような存在であるともいえる。なので予測がやりづらいのも無理も無いとは感じる。


 経済学は社会科学と言われるように、科学としての面を持ちながらも、経済は人間の感情や衝動や心理で動くという人もいる。

 あるいは経済の動きは格付け会社が決める、などという事まで最近は言われている。

 そのどれもが真実だと思うが、いずれにしても、重大な危機も予測できない、十分に対応できないとなると、経済理論経済学には、何か大事なものが欠落しているのではないかという気になる。


 そのひとつの答えとして、ワールドメイトの深見東州先生の何気ない一言が、妙にピンと来たのであった。


 経済政治がわからなければわからない。経済政治で動き、変わるという要素を十分に加味して判断できるだけの経済の専門家がいないから、誰も経済の予測を正確にできないのだと理解できた。

 もちろん経済学者や専門家の人達は、経済予測を行うにあたって、国内政治や国際政治の情勢にも十分依拠していたはずだ。


 しかし正確な経済予測に欠かせない政治の内容を、すべて勉強していたとは思えない。また勉強していても、間違って理解している場合もあったかもしれない。

 というより、実際の政治世界や生きた政治学を知ろうとするときに、そもそも一般人や経済学者では、とうてい深いところまで理解できる世界とは思えないのだが。


 しかし政治を知らないと経済を理解し、将来を予測できないことだけは、絶対に間違いない事に妙に確信がいく。

 ということは、やはり政治を知り尽くした政治家のトップが、経済の専門家による意見も十分によく検討した上で、最後は直感で決断するのが理想であるのかも知れない。

 もし十分に政治がわからない政治家がトップになれば、経済の見通しも判断が狂い、困窮する結果になるだろう。

 そうならないためにも、日本や世界経済の進む道を決断するトップ層に、優れた政治家が集まり、さらに神仏の守護厚くして、正しき直感が冴える人であってほしいと願うばかりである。

 そのためにワールドメイトの神事によって、見えない世界から支えていくことが大いに必要になってくるのであろう。


 同時にワールドメイトの深見東州先生が、政党を超えた、優れた政治家との交流を通して、何の利害関係も無く、謙虚に政治を学ばれているのも、そう言う深い理由からなのであろう。

 政治を学び、正しく経済を掌握することで、日本の国益のために、そして最終的に世界公益のためにと、そういう大きな願いから今年も精進を続けられていると感じている。

2012-01-05 サクセス登竜門を見る

 サクセス登竜門を見る

 ワールドメイト伊勢神業は、大きな解決策が現れて終わった。

 世界経済が混乱から破局に向かわないように、是非とも今年も、やらねばならないことが、たくさんある年になると思う。


 ところで、ワールドメイト伊勢神業が終わった日、深見東州先生が本名半田晴久でアドバイザーとして活躍されている、「サクセス登竜門」に政治家の小沢一郎氏と谷亮子氏が登場した。

 「サクセス登竜門」とは、主に若い人たちの成功者に、さらに大きく成功していくためのアドバイスをされる番組だ。

 もちろんすでに大物政治家として、あるいは超一流のスポーツ選手として、その道のトップの実力を持つお二人の場合は、新春特別ゲストという意味合いなのであろうか。


 しかし、そこはさすが深見東州先生だった。視点が小生とはかなり違った。

 政治家を志したものは、最終的には首相か衆議院議長になって政治力を発揮してこそ本物の成功者ではないか、というような意味のことを言われて、のっけから観念が外されてしまった。

 また、谷亮子氏に対しても、あれだけの輝かしい戦績を世界柔道界で残してきたわけだが、オリンピック金メダルよりも、さらに上にはプラチナダイヤモンドがあるということで、今後の柔道界、スポーツ界への貢献において、目が覚めるような的確な提言をされていた。

 深見東州先生の視点、見識は、その人が気が付かない足りない盲点を突いた、それでいて、今後にとてもプラスになる指針になっていくと感じた。

 しかも谷亮子氏の長所の本質を、ずばり見抜いて引き出されているという感じを持った。


 ワールドメイトでは、そのような深見東州先生の観念を外されるお話は、特に珍しい事ではない。

 しかし、こうやってテレビ番組で、各界の超大物を相手に堂々と発言されている姿を見てしまうと、改めて本物の内容であると感じた次第だ。

 相手が大物であればあるほど、相手が一流の専門家であればあるほど、それに合わせるかのように冴えていかれるようだ。

 そして谷亮子氏の、普段のマスコミの報道ではわからない、隠れた素晴らしさも感じることができた内容であった。



 ここからは余談になるが、小生は、歴代の首相の中では田中角栄吉田茂が好きだ。

 今の日本の政治家に、田中角栄吉田茂のような、大きなリーダーシップを発揮する、大器の人物が見あたらないことを寂しく感じている。

 最近では小泉元首相も、リーダーシップを発揮できたと感じてはいるが、引退した今では、小沢一郎氏のみが、海外の政治家と互角に渡り合っていける、唯一の政治家ではないかと思っている。

 田中角栄も小沢氏も、金権政治家という悪のレッテルが張られ、その部分が強調されがちだ。しかしお金には潔癖でクリーンであっても、国内外における政治力が弱く、国益も守れないような政治家がトップになってもらっては困る。そうなれば日本国民にとって困窮を招くことになるであろう。


 小生は、田中角栄金権政治家というより、本当の意味で政治力を持った、知恵のある賢い政治家であったと思っている。だからこそ、お金も権力も集まったのであろう。

 逆に、お金がいくらあっても、田中角栄のように人心をつかむ政治家になれるものではない。


 田中角栄に大きな功と罪があることは理解しているつもりだが、悪の部分だけを見ていては、政治家として大成できないし、その前に権力闘争にすら勝てないであろう。

 民主主義社会の政治構造が、「数」と「票」を得るための権力闘争抜きには語れないのであれば、その部分は必要悪と割り切るしかないとも思える。


 そういう意味で小沢一郎氏は、「悪党小沢一郎」と呼ぶ人も多いが、政治家として本物の実力者であり、諸外国の海千山千の政治家に対抗していける、日本で唯一の政治家ではないかと感じている。

 政策に関しては、必ずしも正しいとは思えないものもあるが、政治家の資質と器いう点で、小生は評価するものである。


参考

サクセス登竜門

wikipediaより引用

『サクセス登龍門〜夢へ!学ビジョン〜』( - とうりゅうもん ゆめへまなビジョン)は、2011年7月から、毎週火曜日23:00-23:30(JST)にBS11が放送しているドキュメンタリー番組である。


毎週、夢へ向かって真剣に生きる若者を取材してゲストに招き、直面する問題の解決法、挫折から立ち上がるためのヒントを提示する番組。

夢に向かって真摯に生きる若者のドキュメンタリー取材を放映。取材対象は、高校生からベンチャー企業社長美術家芸術家アーティストまで幅広い。 更にスタジオで半田晴久と対談。夢を叶えるため、どんなビジョンを学べば良いか探ってゆく。


2012年1月には、新春特番として、小沢一郎谷亮子がゲスト出演し、まだまだ成功半ばという意味で、今後、いっそう大きく飛躍するためのアドバイスを受けるかたちとなった。このときは取材はなく対談のみであった。


小沢氏への最近の報道より引用

“小沢氏 自分なら無罪判決”

12月16日 18時18分

民主党の小沢元代表の裁判で、元秘書の取り調べを担当し、村木厚子さんの事件の主任検事だった前田恒彦検事が証人として呼ばれ、小沢元代表に対する捜査について、「捜査には問題があり、自分が裁判官なら小沢さんに無罪の判決を書く」と述べました。


16日の裁判には、小沢一郎被告の資金管理団体の会計責任者だった大久保隆規元公設秘書を取り調べた、前田恒彦検事が証人として呼ばれました。村木厚子さんの事件で証拠を改ざんした罪で服役中の前田検事は、小沢元代表に対する捜査について、「特捜部の上司は、『特捜部と小沢の全面戦争だ。小沢を挙げられないと特捜の負けだ』と話していた」と証言しました。そのうえで、「特捜部の幹部らは、事件の背景にはゼネコンの裏献金があると、夢のような妄想を抱いていたが、見立てが違うと思っていた。ゼネコン側が裏献金を強く否定しても想定には合わないので、証拠として調書に残さず、捜査には問題があった。自分が裁判官なら小沢さんに無罪の判決を書く」と述べました。16日で事件の直接の関係者の証人尋問は終わり、検察官役の指定弁護士は、小沢元代表の有罪は揺らいでいないとして、元代表への報告を認めた元秘書らの供述調書を採用するよう、裁判所に求めていくとしています。

2011-12-28 激動から激震の年へ

激動から激震の年へ

 今年も残すところ数日になってしまったが、毎年この時期になると、今年の重大ニュースというものがマスコミで特集される。

 各社の今年の重大ニュースを振り返ると、2011年は国内外ともに、21世紀で最大の激動の年だったと感じる人が、かなり多いのではないか。

 国内では、もちろんあの忌まわしい東日本大震災と福島原発の事故が飛びぬけているが、これは世界各国から見ても、トップクラスになるであろう大事件であった。

 しかし、今年はそれだけでは済まない。

 特に世界における出来事において、今年ほど多くの重大事件が起きた年は、記憶に無い。

 ここでそのすべてを細かくは述べる時間は無いが、一言で言えば、世界の潮流や枠組みを変えるような、あるいは変えていくであろう出来事がいくつもおきている。

 思いつくままに、アウトラインだけをざっとあげておく。


◆グローバル化の中で、世界経済が根幹から大きく揺さぶられている。米国の金融、財政の崩壊、ドル基軸通貨への不安、格差問題、ユーロ圏の経済問題、世界景気の停滞・・。

近代資本主義の枠組みに限界が来ているのか、構造変化がおきているように見える。

アラブの春と呼ばれる、一連の中東、北アフリカの独裁的な政権が、民衆ネットを通じた蜂起によって、次々と崩壊していった。また、他のアラブ諸国、中国やロシアなどへも大きな影響を与えている。

◆福島原発の事故によって、今後の世界エネルギー政策が、大きく流れを変えていきそうである。

◆米国一極の軍事的優位は、今年も揺らいでいないとはいえ、今後、大きく後退する予兆が出ている事は否めなくなってきた。同様に、南アメリカをはじめとして、米国の影響力に明らかな陰りが出てきている。

◆ますます激しさと頻度を増す、地球温暖化が原因と思われる自然の大災害が増える一方で、先が見えない世界規模の地球温暖化対策の遅れが、致命的な問題となりつつある。

◆ビンラディン、カダフィ金正日など、世界平和にとっては問題となる大物たちの相次ぐ死亡、暗殺がおきた。テロの激化、政情不安による紛争の懸念がある。


 このうち原子力エネルギーに対する政策変化など、いくつかを除けば、多くはワールドメイトの神事などでも何らかの方向性が示され、取り上げられていたものが多い。

 つまり、何年も前からワールドメイトでは、世界規模での重大な問題として、平和的な解決を願い続けてきたものが多いと言える。

 それでも今の混迷と激動の時代に、そう簡単にすべてが好転するものではない。

 逆に言うと、ワールドメイトの神事を行ってこなかったら、今頃はどうなっていたのであろうかと、戦慄を覚えてしまうことがある。



 ワールドメイトの神事では、これまで常に、社会に大きな証という形で神力が現れてきた。

 ワールドメイトの神事が、なぜこれほどの大きな力を発揮するかについては、大きなカギがある。

 何千年もかけて準備されていた鍵なので、ワールドメイト会員限定で、これらの秘鍵を、時々明かしてくださる。

 天界のものは、本来「天機もらすべからず」という諺にもあるように、けっしてむやみに明かすべきではないと思うのだが、内容を知らなければ、具体的な祈りの力を結集できないので、真摯な気持ちで神事に参画する人だけに明かされてきた次第だ。


 それはよいとして、そのワールドメイトの神事の在り方も、年月を経るごとに進化し、変貌を遂げてきていると思う。

 小生はできることならば、ワールドメイトで神事をもっとやってもらいたいぐらいだ。なぜなら、それで日本や世界が少しでも良くなるのであれば、これほどありがたいことは無いからだ、


 しかし、それでは我々ワールドメイト会員も続かないし、負担に感じてしまう人もたくさん出てくるのであろう。

 小生も気持ちとしてはそうであっても、実際の現実となると、やはり仕事や家族も大事にしなければ続けられない。だから参加すると言っても、かなり限られてしまう事が多い。

 それ以前の問題として、ワールドメイトは社会性を大事にするところなので、そういう過度に無理なことはされないであろう。

 もちろん深見東州先生ご自身も、超過密スケジュールで動いてあると予想されるので、ワールドメイトの神事を優先しつつも、そればかりもできないのではないかと察する。

 しかし現実ばかりを考慮するあまり、最終的に、日本や世界を苦しみと困窮から救えなくなることにでもなるならば、これ以上に辛いことも無いと言える。

 このようなジレンマは、一介のワールドメイト会員が考えても仕方が無いことではあるのだが、時々そんなことを感じてしまうのであった。

 本当はもっとたくさんの、志を持ったワールドメイト会員が順調に増えていけば、もっと大きな救済も可能になるのかもしれない。しかし、ワールドメイトでは無理な布教や強引な布教をしないので、少しづつ増えていくという感じなのである。だからこそ良いと思う面も多いのではあるが。


 深見東州先生ご自身、深見東州先生にしかできない尊いお役割が山のようにある中で、ワールドメイトの宗教活動ばかりに時間をさけない状況も、今後は増えていくのではないかと思う。

 宗教活動だけでなく、真善美に通じる、学術、社会科学芸術、福祉など、様々な活動をしなければならないからだ。なぜならば、本当の神様は、真善美をもって現われるからであり、そのすべてを偏りなく実践しなければ、本当の神様がわからないからだ。

 わからなければ、神様のお取次ぎも正しくできなくなるので、結果的に神様の神力を世に出せなくなると言える。

 そうなっては元も子もない。それで、深見東州先生は、あれほどの過酷なまでの精進努力を若い時から、一日も休むことなく継続してこられたのである。

 そして、今日まで精進を積み重ねて来られた結果として、今年あたりから、いよいよ大きく社会に現実的な形として結実されていることを感じる。

 この傾向は、来年以降も一層加速していくと思われる。

 これからも、そしてこれからが、本当にワールドメイトと深見東州先生の活動の真価が問われる、本番なのである。