当事者はいかにして発見されるか

ある集団の構成員の特徴を数値で表現できるとしよう。もちろん数値は多次元であり、各構成員は多次元空間上の点に代表される。これらの点の分布を観測したとき、何らかのクラスターを見いだすことができるとしよう。

一方、この構成員の「幸福度」を数値化できるとしよう。集団の構成員の点の分布を、幸福度の観点から観測したとき、上記クラスターの幸福度の平均値が、全体の平均値と比較して有意に小さいとしよう。

このとき、このクラスターの構成員は「当事者」であると見なされる。一方、クラスターの中心に近いか遠いかで、「当事者性」の大小は測られる。通常、こういったクラスターは、何らかの距離空間を定義した上で、その距離空間における近接性を計算して同定される。

しかし、実社会における当事者の発見はそれとは少し異なる方法で行われる。つまり、こうだ。

まず、「当事者ではないか」と思われる「候補者」が、一人、二人と散発的に発見される。この「候補者」の発見は、ある種の「非-幸福」の発見が契機となることが多い。引き続いてその「候補者」がプロットされている点の近傍において「さらなる候補者の探索」が行われ、三人目、四人目の候補者が発見される。このようにして発見された「当事者の候補者群」と、「明らかに当事者ではない一般人」との間の、できるだけ点が疎の領域を選んで、仮の境界線を引いてみる。そして、境界線の内部の「候補者」の幸福度が、外部と比較して小さいことが再確認される。

この時点で、「候補者」は(探索者の手によって)「当事者」に格上げされ、境界線内部の、より境界線から離れた(「中心」に近い)部分における当事者探索が集中的に行われる。それと同時に、「境界線付近」にはできるだけ点が存在しないことが望ましいので、その部分における探索は意図的に避けられる。(探索者は、候補者とは異なる第三者であることもあるが、当事者自身であることもある。)

このようにして当事者というクラスターが「社会的に構成」される。

当事者の幸福度の平均値は全体の平均値と比較して小さい(とされる)ので、この差が問題化され、(一般には)この差を埋めることが社会的目標となる。

しかし興味深いことに、いったん当事者のクラスターが構成されてしまうと、個々の当事者の幸福度の「当事者全体の平均値からのずれ」はあまり問題とされない。むしろ、当事者の幸福度の分散が大きいとなると、一般人との平均値の差を埋めるという社会的目標が相対化され、あいまいになってしまうので都合が悪く、従ってあえてそのような分散は(たとえ存在していたとしても)等閑視されることが多い。

私たちは、誰でも何らかの点において当事者であるはずである。しかし不思議なことに、私たちの多くは、「社会において「当事者」はごく例外的な存在であり、少なくとも自分自身はいかなる問題の当事者でもない」と感じている。それは恐らく、当事者の決定におけるこのような社会的構成メカニズムによるものだと思われる。

いずれにせよ、このようにして当事者のクラスターが確立され、幸福度の差が問題化され、その解消という社会的目標に従った活動が実施されるようになる。

その後しばらくすると、今度はこれまで等閑視されてきたクラスターの境界線近傍に位置する個人の存在が徐々に「発見」されるようになり、クラスターそのものの妥当性が問われるようになる。また、個々の当事者の幸福度の分散の大きさの問題や、そもそも幸福であるか不幸であるかは誰が決めるのか、といった決定の問題が浮上し(というか、そのタイミングを見計らっていた者によって問題提起され)、問題は複雑化する。

一部の者はその問題の複雑化そのものによって、コミュニケーションの継続という利得を得さえする。これを当事者性の消費のプロセスと呼ぶこともできよう。しかしこのことは必ずしも否定的に捉えるべきではない。なぜなら現代において、消費動機は問題解決のための極めて強力な手段の一つであるからである。

もう一度言おう。

私たちは、誰でも何らかの点において当事者であるはずである。しかし不思議なことに、私たちの多くは、「社会において「当事者」はごく例外的な存在であり、少なくとも自分自身はいかなる問題の当事者でもない」と感じている。

我々が獲得するリソースの価値

我々が獲得する知識、スキル、経験、資格、資産、人脈など(以後単に「リソース」と呼ぶ)の生み出す価値は、「(A)自分自身にとっての価値」と「他人にとっての価値」に分けられる。後者はさらに、「(B)自分の属しているコミュニティの構成メンバーにとっての価値」と「(C)自分の属しているコミュニティ以外の誰かにとっての価値」に分けられる。

自分が一生同じコミュニティに属し続ける場合には、Bを生み出すリソースを獲得することが合理的である。一方、自分が複数のコミュニティを転々とする場合(あるいは同時に複数のコミュニティに帰属する場合)にはCが必要で、しかもそれら複数のコミュニティでいずれも価値を生み出しうるようなポータビリティーの高いリソースを獲得することが合理的である。

しかしながら、いずれの場合でも、そのリソースが「(A)自分自身にとっての価値」をもたらさなければ、我々は不全感を抱えざるを得ない。従って、自分が一生同じコミュニティに属し続けるような社会環境ではAとB、そうでなければAとCをを同時に生み出すようなリソースの獲得が課題となる。器用な人間ならば、それぞれを個別に生み出す別種のリソースを獲得し、自分用と他人用に使い分けるかもしれない。

ここで重要なのは、B,Cを生み出すリソースを獲得するだけでは我々は満たされないということである。複数のコミュニティを転々としなければならない社会環境において、B,Cを生み出すリソースしか獲得できないままだと、我々は「自分探し」をひたすら続けることになる。

個人の幸福度をVとすると、これはAだけでなく、B,Cにも(金銭的・非金銭的報酬を通じて)影響を受けるので、

V=A+xf(B)+yg(C)

と書くことができる(VとAの単位は同じとする)。

ここで、f,gは、当該個人が獲得したリソースを通じてそれぞれのコミュニティにもたらした価値B,Cに対して、コミュニティが個人に与える報酬であり、基本的にはB,Cの単調増加関数である。また、x,yは、当該個人がそれぞれのコミュニティから与えられた報酬をどれだけ自分自身の「幸福」として感じるかを表す。

たとえば、x,yの値が共に極端に小さい場合、B,Cの値が大きくても、Aの値が小さければ幸福度は低く、逆にB,Cの値が小さくともAの値が大きければ幸福度は高い。これは、「世俗的成功」を求めず、内発的動機付けが強いパーソナリティに該当する。

また、Bは大きいがCはほとんど0であるような場合、f(B)の値が下落するような社会環境ではリスクが大きい。しかし、xが大きくyがほとんど0であるような(=帰属する第一コミュニティへの忠誠心が極めて高い)パーソナリティの場合は、たとえCを生み出すようなリソースを獲得しても幸福度は高まらないであろう。

我々は、f,gという社会環境を見極めつつ、x,yという自分自身のパーソナリティを自覚した上で、A,B,Cのいずれを生み出すリソースをより重点的に獲得すべきかを判断するのである。

「それ」を実現するために

我々の役割は、「「それ」をすべきである」と説教することではない。「それ」が実現するような環境を設計し、実装し、運用することである。これがまず大前提。
たとえば、「事実に基づいた議論」を要請するのであれば、統計データ等を容易に(「リテラシーの高い人」以外にとっても本当に容易に)参照できるようなサービスを提供し、さらに、それを活用することのインセンティブをサービス内に組み込まなければならない。
次に、「事実に基づいた議論」というものがどのようなものであり、どのような「通俗的な印象論に反する」理解をもたらし、そのことによってどのような具体的な行動指針が導出され、これらすべてにかかるコストが(想像されているよりも)いかに少ないか、を例示しなければならない。さらに、そのような議論とその集積を支援するような情報表現とコミュニケーションのプラットフォーム*1を設計・実装・運用することによって、実際に「それが起こる」状態を作り出す必要がある。

一方、「それ」が定着しないのは、「それ」が無くとも不都合無く生きていける環境があるからだとも考えられる。「それ」が無いことが不都合をもたらしているにもかかわらず「それ」が定着しないのは、その不都合の可視化・当事者化に失敗しているからだ。「不都合の可視化・当事者化」を行っても「それ」が実現しないのは、前者から後者に至る動線が可視化されていないこと、その動線を自分がたどることが出来るという自己効力感を醸成できていないことが原因だ。
裏返せば、これらを全て設計・実装・運用することで「それ」は実現する。
問題は、このような広汎で息の長い「プロジェクト」を誰が担いうるか、ということだ。大抵の人間が「「それ」の提示」のみしか行わないのは、プロジェクト化の不可能性(報われなさ)を骨身にしみて知っているからだとも考えられる。すなわちここにもう一つの問題、設計・実装・運用をトータルで実施するプロジェクトのための「組織化」、という問題が存在することが理解できる。これは複数の人間で行うプロジェクトの場合に限らない。個人が、自分の時間をどのように長期にわたって「組織化」するか、という問題も同様である。
この難題に対して、「システム思考」の分野は「レバレッジ」という概念を提案する。これについては大いに関心はあるが、残念ながら、いまだかつて実感できたためしがない。

*1:実はそのような「プラットフォーム」の構想はすでにある。技術と資金が無いだけ。って、これが無くてどうするんだよ、という話だが。

メディアのフレーム

補正予算見直し」に関して、「しわ寄せで市井の善良な人々が困っている」というフレームの報道が見られるようになってきた。そのような報道が、世論にどのような影響を与え、政治に対するどのような圧力を生みだしうるかを考えたい。誰が、どのような意図で「種」となる情報を流し、マスメディアにそのような報道をさせているのか。
もちろん、報道されているような事実は確かに(少なくとも確率的に)存在するだろうし、政策はすべからく多角的に検証すべきであろう。
しかし、まず問うべきは「補正予算見直し」なるものが、どのような方針に基づいてどのような優先順位で行われるべきか、という全体の哲学ではないか。その上で、「見直しをせよ」という指示が省庁サイドにどのようなインセンティブと抵抗をもたらしうるか、に対する予測が適切になされていたのかどうか、そして適切な予測に基づいた指示方法がとられていたのか、が検証されるべきではないだろうか。
「あえて誰の目にも明らかな悪手を打ってメディアに批判させることによって政策自体を潰そうとする」程度のことは普通に行われるのではないかと思う。
「メディアが伝えたい」メッセージがあるのか、それとも「誰かがメディアに伝えさせたい」メッセージがあるのか。
こういう話を「陰謀論的なもの」に陥らずに議論しなければならない。

解決手段を否定すれば問題は消滅するか

問題に対する特定の解決手段を「不適切」だと批判したところで、問題が消えるわけではない。それにもかかわらず、「不適切な解決手段」を批判したところでみな満足し、問題のことを忘れてしまうのは何故だろうか。
同様に、問題を抱えている当事者が(解決の糸口を見つけるために)思いついた特定の原因を第三者が否定したところで、問題が消えるわけではない。それにもかかわらず、原因を否定することで当事者を「安心させた」「慰めた」はては「問題を解決してやった」と思う人間が少なからずいるのは何故だろうか。


※後者の簡単な例「私が毎日楽しくないのは趣味がないからじゃないかな」「そんなことないよ。趣味が無くても楽しく暮らしている人は一杯いるから、そんなこと気にしなくても大丈夫!」

メディアの未来、我々の未来

(1)今日、出版業界は深刻な不況に直面している。しかし、紙のメディアが勢いを失おうとも、「編集」という知的行為の価値は変わらない。ウェブ上で「編集」を活かしたビジネスを展開する方法はいくらでもある。また、出版業界の旧来の収益モデルが機能しなくなったからといって、「編集」という知的行為を収益に結びつけるモデルがなくなるわけではない。これも工夫次第である(『新世紀』)。
(2)ウェブテクノロジー自体がダメなビジネスを上げ底してくれるわけではない。あくまでオフラインでも通用する優れたビジネスを行っていることが大前提であり、ウェブテクノロジーはそれを効果的に展開するための手段にすぎない(『グーグル』)。
(3)マーケットの変化と新しいテクノロジーの台頭は、いずれも古いビジネスモデルの土台を揺るがす。日本において、規制によって既得権益が守られることで成立していた、マスメディアの「コンテンツ」「コンテナ」「コンベア」の垂直統合という収益構造。これが、国民の価値観・ライフスタイルの多様化とウェブテクノロジーの進歩によって崩壊しようとしている(『2011年』)。
(4)「すりあわせ」による垂直統合お家芸としていた日本の製造業は、モジュール化による国際斜形分業を戦略的に推進する欧米企業と新興工業国によって、窮地に立たされている。これからは、研究戦略、知財戦略、事業戦略の3つを兼ね備えたイノベーション戦略を構想・遂行しなければならない(『なぜ事業で』)。


(1)は、価値を生み出す「コアコンピタンス」は何か、という話。(2)は、コアコンピタンスに基づいた具体的な価値の創出の話。しかし、価値を生み出すのは何もコアコンピタンスだけではない。「規制によって保護された既得権益」も立派な価値の源泉だ。この「源泉」が激変しつつあることを「垂直統合」をキーワードに解説したのが(3)。また、コアコンピタンスを権利化、商品化し、普及させるための戦略がなければ、事業としては成功しないということをやはり「垂直統合」をキーワードに論じたのが(4)。

この4冊を読むと、メディアの未来がおぼろげながら見えてくるのではないだろうか。「垂直統合」がダメなら分業か。その場合、どの部分を担うことを狙うのが最も有利なのか、あるいは、現状でどの部分を狙うことがそもそも可能なのか。いずれかの部分を担うとして、事業を成功させるために同時に満たさなければならない条件群はどのようなものか。等等。
それなりに興味深い議論ができそうだが、その前にはっきりさせておかなければならないことがある。そもそもこの話の「主語」は誰なのか、ということだ。日本?マスメディア?特定の新聞社やテレビ局?
我々に、日本やマスメディア全体や特定のメディア企業の心配をしている余裕などあるのだろうか?そのような「心配」に、そもそも何か実効性があるのだろうか?
我々が取り得る、最も実効性のある選択肢は何だろうか?この問いこそが、正にこの4冊が読者に投げかけている問いなのかもしれない。



新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に

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グーグルに依存し、アマゾンを真似るバカ企業 (幻冬舎新書)

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2011年 新聞・テレビ消滅 (文春新書)

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高度成長期が私たちに「生きる意味を探求する癖」を植え付けた

高度成長期の話。

私たちの「生きる意味」を探求する力は失われていった。

逆だ。高度成長期こそが、私たちの欲求の対象となりうるモノをシステマティックに供給し続けたことで、むしろ私たちに「生きる意味を探求する癖」を植え付けたのだ。高度成長期以前に、私たちの大部分はそんなものを探求したことなどなかったはずだから。
正確に言えば「探求」というほど大げさなものではない。あまり考えなくともだれでもプレー方法を思いつくような簡単な「生きがいゲーム」を提示しつづけ、私たちを「ゲーム脳」にしたてあげたのだ。
だからこそ、成熟社会の今、社会が「私たちの欲求の対象となりうるモノを供給すること」ができなくなってしまったにも関わらず、私たちに植え付けられた「生きる意味を探求する癖」は相変わらず残っているという状態が生じていて、それが私たちの不全感の原因になっているのだ。

生きる意味 (岩波新書)

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