車内にて:鰺ヶ沢町(1)

鰺ヶ沢


私はいつも、列車のことを、電車と言ってしまっている。仙台周辺や、東京に出張したときなどはそれでいいのだろうが、ここいらへんでは事情が違う。夕方の飲み会のときに何回も指摘さてしまったのだが、五能線は電車ではないのである。つまりパンタグラフはない。では何か、ディーゼルエンジンで動いている、列車と言わなくてはいけない。したがって、昨今北上線で、燃料補充を忘れたため列車が立ち往生したニュースがあったが、それは電車ではなくて列車だからである。しかも、燃料が切れるということは、車内の暖房も効かなくなるわけでさぞ寒かったであろう。
この深浦から鰺ヶ沢間は、引き続き海岸沿いを走る。風が吹くと五能線がよく止まるのは、この区間のためらしい。波打ち際のテトラポッドを列車から眺めていると、何かコンペイトウのような、波でぬれた姿がロケット型のチョコレートのようなで微笑ましい。以前、湖の畔のテトラポッドにまたがって遊んでいたことがあるが、テトラポッドの間の陰でドス黒い水面が近づいたり遠ざかったりするのは、逆にかなり恐ろしいものである。
海岸沿いの家の屋根の雪は、10cm以上積もっているが、それらは横手・大曲で見た程ではない。しかし、屋根から垂れているツララの長さが、圧倒的にこちらの方が上で、長いものだと1m近いのもあるように思われる。海沿いの気候により、融けて固まってというのが程よいのかもしれない。秋田出身の人に後から聞いた話だが、昔はこのツララが斜めになって窓に当たったりすると、ガラスが割れる事があったりしたそうで、馬鹿に出来ないそうである。今のガラスは強いからそんなことは無いらしいが、昔の板ガラスではそういうことがあったそうだ。

太宰治の津軽について:鰺ヶ沢町(2)

今回の旅では、太宰治の紀行文「津軽 (新潮文庫)」を持参して読んでいる。このとき太宰治は36歳で、「走れメロス (新潮文庫)」など多くの有名の作品を出し心身ともに健康であった時期の作品である。故郷の津軽地方を旅行して津軽の風土について語るとともに、過去の思い出などにも触れ、最後に幼年時代の乳母であり育ての親というべき「たけ」に会いに行くという話しである。
実家の父や兄との微妙な関係や、行く先々で会う友人と酒についての記述があり、太宰治の性格に触れることが出来てとても興味深い作品でもある。その中の風土と自分の性格についての記述を引くと、「津軽人の愚昧な心から「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従うことが出来なかった。」などは、当時の津軽人の勢い高き者達をうらやみ、なかなか素直に誉めることが出来ないというような性質について太宰治は述べており、自分もまたそれに同じであると認めている。そして太宰は、当時小説の神様と呼ばれていた志賀直哉の評判について素直に褒める事が出来ず、周りから志賀直哉の事ばかり聞かれた時には、「君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか」と本音を吐く所などがあって実に面白い。そして、志賀直哉の本を渡されて読んだ時、あら捜しをしようとしたのであるが、「「今読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある」と私は負け惜しみを言った。」などと言う所になにか、風土に根ざしたようなこれでもかというような性質を見ることも出来る。
また、太宰の酒好きについて周りはよくわきまえており、友人はいつも酒を用意して待っているのである。そして太宰は、その奥さんや家族に何か迷惑をかけているのではないかなどと考えながら、結局はしだいに都合のよいほうに考えて、酒を飲み続けていくのである。例えば今別のMさんの家を訪れたときに、Mさんが不在で奥さんが出てきた時、「留守です、とおっしゃる。ちょっとお元気が無い様に見受けられた。よその家族のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんじゃないかな?と思ってしまう癖がある」などと勘ぐっておきながら、Mさんが戻って来てお酒を飲もうという話になり、奥さんが黙ってお銚子を持ってきたときには、「この奥さんは、もともと無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いのかもしれない、と私は自分に都合のいいように考え直し」という所など、自分でしっかりわかっているのに、なんとなく納得させておいて、結局残らず酒を飲むことになるのである。
この後、太宰治の性格と私の性格について書いていくと、たまたま見てくれた人も、長くなって読みたくなくなるだろうから、一つだけにして話を本題へと進める。私もなかなか人の事を心よく褒める事が出来ない。何かあら捜しなどをして、それはたまたまうまくいったのではないか、いつもならこうなるはずだ、などと思ってしまう恥ずかしい人間である。石川啄木も「こころよく 人を讃めてみたくなりけり 利己の心に倦めるさびしさ」と読んでいて、非常に共感できる所であり、こういったのは皆にあるものなのか、それとも東北に根深いものであるのかはよくわからない。

太宰治の疑問:鰺ヶ沢町(3)

さて、私が鰺ヶ沢町に寄るのは、知人がいて用事があっての事である。太宰治はこの鰺ヶ沢町で降りて、3ページであるが文章を残している。そして太宰の文章を読むと、鰺ヶ沢の地名の由来が疑問として残っており、いや太宰治の疑問が残っているのではなくて、読むと疑問が残るという事なのであるが、今回はそれをもう少し調べてみる。
まず鰺ヶ沢町について述べよう。鰺ヶ沢町青森県の西海岸に位置し、北は日本海に面し、南は白神山系を有している。1491年には津軽藩始祖大浦光信公が種里に入部し、藩政時代には津軽藩の御用港として栄え、海上交通の門戸として重要な位置を占めていたそうである。交通としては、弘前から五能線で1時間強の位置にある。
さて、太宰治鰺ヶ沢の記述はあまり良い事を書いてはいない、評価として「この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄いっても、同じような町並みが何の変化もなく、だらだらと続いているのである。〜町の中心というものが無いのである。〜扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。」としている。しかし、実際に町を歩いてみると、最近は寂れた商店街が多いなかで、未だに細長く商店街が連なっており、店は総じて開いている。町の規模からするとこの商店街は、かなり大きいのではないだろうか。時代が変わると評価も変わってくるかもしれない。
駅前で町の人に鰺ヶ沢の地名の由来について尋ねてみたのだが、どうもらちが明かないので、資料のありそうな場所を探してみる。商店街を海へと歩いていくと、海の駅という道の駅があったのだが、そこは出身力士である「舞の海」を中心とした相撲の記念館であったので他をあたる。さらに歩いていくと、煙突は無いが都会のごみ焼却場級の大きさの建物が見えるのでそちらに向かってみる。この建物は日本海拠点館という建物で、津軽の玄関として日本海交流の拠点となるべく、その存在をアピールするシンボルとして、また、文化芸術活動、国際交流、情報発信の拠点として整備しているそうである。
入った時には何のイベントも行っていなかったが、アジロックフェスティバルの出場バンド募集のポスターが目に付いた。2階フロアが図書館となっているので、そこで調べることにする。20年ほど前に編集された鰺ヶ沢町史を読んでみると、浪岡の北畠氏が天保年間(1532-1555)に作成した「津軽郡中名字」畠和郡に、鰺ヶ沢の名前が初めて出てくるとある。町史を読み進めていったが、どうも該当する箇所は無いらしく、なにか参考になる物はないかと、図書館の美人司書さんに尋ねると、2冊の冊子を紹介される。
「ふるさとあじがさわ」鰺ヶ沢町制施行100年記念(H2年)という本によると、結局は色々な説がありあまりよくわかっていないらしい。昔は、鮫が浦(さめがうら)、鰺屋沢(あじやさわ)と言ったとか、鰺がたくさんとれたからとか(町の人に今を聞くと、イカはたくさん取れるが鰺はそれ程ではないという)、一丁目の沢に芦(あし)が生えていたから芦ヶ沢(あしがさわ)といってたのが鰺ヶ沢になったとかの説が述べられていた。また「続・ふるさとあじがさわ」(S48年)によると、他に、小川に鰺が沢山上って来たので鰺ヶ沢とか、また魚の「あじ」といっても、「あじ」と言う水鳥もおり、魚の「ハタハタ」の事を「おきあじ」とも言うと記載されている。まあ、地名の由来なんて明確にはわからないものかもしれない。以前花巻に出かけたときも、花巻の由来について諸説いろいろ記載されていた。
結局そんな所ででした。この日本海拠点館までの道のりまでには海水浴場がある。道路から海水浴場に行くためには、1mの積雪の公園を行かなくてはならず、海の側に行くのは諦めていたが、この駐車場の裏手が崖になっており、日本海を間近に見ることが出来た。不老不死を出た時よりも晴れ間は広がっており、空の中に雲が居ると言える様な青さの空になってきた。しかし、海だというのに風もなく、雲を見つめていても動いていないようで、冷えついた空気に時も、凍っているような不思議な光景であった。(詩「ひょうけつ」