夕方7時半にNHK教育に出ていたジャズバンドみたいなものがが勢い余ってめちゃくちゃかっこいいので誰かと思ったら、Soil&"Pimp" Sessionsというクラブ系の人たちだった【色めき立つとはおれカネゴン】。
当然ながら文芸コンプレックスとはきれいさっぱり無縁で、楽器の上手さだけがアイデンティティと化してしまった一昔前までのミュージシャンと違い、出音に『今のよかったでしょ?!』みたいな押し付けがましい無言の付箋を付けて回ったりしない。
色川武大が開発しクレージーケンバンドリリー・フランキーが発展させた「実用的なインテリ不良」のメソッドがだいぶ世に行き渡りつつあることを感じさせる。いつしかこういうのが当たり前になり、カルチャースクールで「不良講座」が開設される日も近い。

野崎先生の「不完全性定理―数学的体系のあゆみ」によると、自然数論を含む述語論理体系Zは【わからず書くとはおれカネゴン】、次のどちらかにしかなりえないのだそうだ。

  • 無矛盾だが、不完全 -- Aと呼ぶ
  • 完全だが、矛盾がある -- Bと呼ぶ

数学においてはBは無意味なものにしかならないそうなのだけど、カネゴンアイにはむしろ、Aの方が断然無力で勢いがなく、Bこそ力強くて発展性があるような気がして仕方がない【あきれた子とはおれカネゴン】。
聖書やコーランに限らず、経典には何らかの矛盾がどうしても見つかってしまうものだけど、今のカネゴンからすると、矛盾が見つかるなどということはまったく傷に感じない。むしろ矛盾があることと引き換えに、その経典において完全性が得られるのではないかとついざっくり考えてしまう。もし経典に何の矛盾もなければそれは不完全にしかならず、そちらの方がよほど致命的だと思う。
逆に、矛盾こそ完全性の証として胸を張ってしまったりして。

色川武大は「私の旧約聖書 (中公文庫)」でついうっかり神に挑戦してしまったけれど、その本人ですら、自分の中に手作りの神をしっかり持っていた。しかも、その手作りの神が自分を律してくれていないと生きていくことができなかったことを告白し、自分が作った神は可能な限りいじったり正体を暴いたりしなかったとも白状していた。
もし神を「自分の中にあって、自分を律するもの」と定義すれば、色川武大の神も他の神と同様、立派な神になってしまう。
おととい書いた「ユークリッド幾何学を考える」でも、ある体系1つだけでは決して成立せず、基になる体系とそれを展開したモデルの二本立てでないとやっていけないことが示されていた。ここから勝手に推測すれば、どんな人でも自分の中に何らかの形で(自問自答の相手としての)神がいないとやっていけないということになりはしないだろうか。
同書では、点とか直線は大家体系の中では無定義語としてあり、モデルの方で初めて定義されるものとして扱われていたのだけど、これと同様、定義してはならず、正体を問い詰めてもならない相手が脳内のどこかに必要だったりしないだろうか。
「信用」もこれと似たところがある。すべての人を疑っていたら日常生活が成り立たない。だからこそ、両親だとか上司だとか寺田寅彦だとかみのもんただとか、どこかで誰かを無条件に信用せざるを得ない。どんな科学でも「と学会」でもこれは同じで、あらゆる疑問について自ら実験した人物を除いて、自分が自ら確認していないことについては「あの人が言ったのだから正しいだろう」「この本に書いてあったから正しいだろう」という推測で先に進むしかなかったりする。
もしかすると神については「存在する」とか「存在しない」と議論をすること自体が見当違いで、「神は必要かそうでないか」と問うのが正しかったりするだろうか。だとすれば、神は「いる」とか「いない」ではなく、「必要」なのだと思う。
脳とか意識とかを研究するとき、そろそろこういう視点が必要になってくるのかもしれない。意識がそれ自体で何でも決定して好きなように動けるのではなく、自問自答の相手としての神、自分の中にあって自分を律する神(手っ取り早く言えば良心みたいなもの)とのせめぎあいまたは相互作用があって初めて意識が成立するような気がしないでもない【あの世近づくおれカネゴン】。

これはカネゴンも考えたくない恐ろしい仮説なのだけど、どんな形であれ(手作りでも何でも)、上で定義した神を心にまったく持たない人は、人間ではないような気がしてきた【ぜんまい飛び出るおれカネゴン】。