『赫奕たる逆光』野坂昭如

 読みにくい。疲れた。副題は「私説・三島由紀夫」だけど半分(以上?)は自分の話。酔っ払いの話を聞いてるみたい。同じ話はぐるぐると何度も出てくるし、どこまでが事実でどこからが妄想かわからないし…。
 野坂昭如は「火垂るの墓」のイメージで、戦争で何もかもなくしてビンボー、という印象を持たれているけれど、実はけっこうお坊ちゃんだったらしい。しかし養子に出て戦後再婚した実父のもとに戻ったりして、複雑な家庭ではあったようだ。
 《直木賞受賞の「火垂るの墓」を、ぼくは一度も読みかえしていない。主人公がぼく自身であるように、巧妙というより、卑しく仕立てているが、ぼくは、妹にあんなにやさしくはなかった。そして、大火傷の養母と、祖母がいた。「空襲で家族を失い」と、三十八年、「プレイボーイの子守唄」で書いて以後、ぼくはこの嘘をつき通してきた。祖母は二年、養母は七年、生きていた。》《十四才で空襲、養父を失い、二年半、祖母養母との陰惨な暮しの後、十七歳で、副知事の次男に復帰、三十五歳の美しい継母に迎えられる。》
 養父に対して《しゃべるうちに嘘が嘘を呼び上塗りを重ね、口を動かしつつ頭で辻褄合わせを思いめぐらせる》という状態だったというけれど、そういう人なんだろう。これはそのまま小説家の才能でもあるわけだし。
 三島については、異端でなければならない自分とそれを自己解体して小説にしてゆく自分との間で綱渡りをしなければならなかった、みたいなことを言っていて、鋭いかもしれないと思った。
 遺言で「仮面の告白」と「愛の渇き」の2作の版権を母親に与えるとしたことも奇妙だと言っている。《たしかに、この二作、印税をもたらすだろう、また、記念碑的作品に違いないが、果して感謝の気持ちからか。あの素漠と無邪気な「潮騒」なら、親孝行といえるだろうけど。》《(母親は)印税がらみではなく、三島の、自分に対する確かな愛情、少し邪推すれば、嫁をみかえす気持ちもあったかもしれない》最後のはどうかと思うが(三島が嫁より断然母を取っていたのは母親にはじゅうじゅうわかっていたはずで、わざわざ見返す必要もなかったかもしれない)確かにいえている。

『倅・三島由紀夫』平岡梓

 半年くらい前に読んだのだけど、「えげつない」と感じるくらい変だと思ったのは、嫁(三島の妻)について全く触れていないことだった。不自然なくらい触れていない。孫のことはよく出てくるのに、その母である三島夫人については全くのスルー。たったのひと言も触れられていない。《倅は愛妻家でしたか恐妻家でしたかと、物好きにもこれをせんさくする人が時にはあります》と出てきたので(←編集者が促したのかも?)、やっときたか、と思えば話は抽象論にそれていき、やはり触れない。同じ敷地内にある家に住んでいたはずなのに、これだけ家や家族について書かれているのに、まるで見えないかのように、透明人間みたいに避けられてる。狂信的なファンが窓をやぶって入ってきた話でも《家族は大騒ぎ》とまとめられちゃってる。丸山明宏の話は好意的に出てくるのに妻は無視なんて…。丸山明宏なんて夫人にとっては敵のはず。敵には好意的なのになぜ…。ただ解説の徳岡孝夫だけが、三島と母親の異様な密着ぶりについて触れ、夫人に同情している(きっと夫人と交流があったのだろう)。野坂昭如の「赫奕たる逆光」によると、三島夫妻の不仲は有名で、レストランで人目もはばからず大喧嘩するのを目撃されていたという。母だけではなく父親も三島の側についていたということだろうか。
 その夫人が猫嫌いだったために、猫好きの三島は結婚後猫を飼えなかったとどこかで読んだけれど、この本を読むと、三島は子供の頃から相当な猫好きだということがわかる(両親は犬好きなのに)。猫エピソードが何度も出てくる。周囲の人の証言で《一周忌に家に猫が入ってきて、追い出しても追い出しても入ってくる。三島先生が猫をたいへんお好きであることは前々から知っていたので、気味が悪くなり、先生の写真を猫の来ないところに隠したり線香をあげたりした》というくらい、周知の猫好きだったらしい。父親はこう言われたことがあるそうだ。《お父さまは犬と同程度のアタマで、猫のあの微妙複雑な心理なんかとてもむずかしくて判らないだろう》
 毎晩おやすみを言いに行く両親の家(同じ敷地内にある)は、母親曰く《公威のいう唯一の憩いのお城》だそうだ。母親は三島を、死ぬまで自分だけのものだったと思っていたことだろう。ところどころに挟まれる母親の語りからそれがありありとわかる。死の直前にも二人だけで歌舞伎を見に行っている。それも今まで何度も二人で見た演目を。《何時でも感じるところ笑うところが二人とも同じ場面で、この時もいつもとまったく同じでした》
 《倅の肉体に対する劣等感はきわめて強かったことは親しい方々はすでにご承知のことですが、倅はこれをなんとしても克服しようとボディビルに飛びついたのです。(略)日大の浜田靖一さんは、「三島さんはスポーツをやらなければよかった。彼は一生腺病質で胃弱で青白い天才でよかった。今にして思えばスポーツはその作家活動に新しい局面を開いた剣であり、同時に自分の生命をも断ち切ってしまった諸刃の剣でもあった。三島さんはめくるめく新しい肉体の世界をそこに見出した」と話しておられます。》
 ずっと前に石原慎太郎もテレビで同じことを言っていた。「三島さんはボディビルなんかせずにずっとひ弱なままのほうがよかったんだ。だってあの人は、あんなムキムキの体で、キャッチボールさえできなかったんですよ」石原慎太郎みたいに天然でキラキラした男前(若い時は本当に男前だった)しかもどマッチョ、三島はさぞコンプレックスを感じたことだろうな。
 盾の会の制服は《西武デパート堤清二さん》にデザイン、服地、仕立てなどお世話になったとのこと。もうちょっと何とか、趣味よくしてやれなかったのか…。