Life アーティストトークに通りかかった(1)

昨日、髪を切ろうといつもの美容院に予約を入れた。


1時間くらい時間に余裕があったので、
久しぶりにオペラシティのICCにふらっとたちよってみた。
今何やってんのかな、と。


今はこれがやっていた。
Life fluid invisible inaudible...


おおぉー、と思って早速 観にいった。
入り口に入ると、
「アーティストトークご参加の方はこちらへどうぞ」と言われる。


「?誰がしゃべるのですか?」と聞いてみたら、
坂本龍一さんと、高谷史郎さん、浅田彰さんです。」とのこと。
「!!!」
せっかくなので、聞いてきました。美容院の予約があったから途中退出しちゃったけど。


坂元龍一さんは、科学者っぽい印象の人だった。
思っていたよりも、ずっと科学的な考え方をしているように思った。高谷さんも。


最近の芸術家って、データ的な根拠を使わない科学者という印象がある。
最新の科学、脳科学であったりコンピュータ、インターネット、物理学などから発想を得て、
それをその人なりの形でなんらかの表現手段にしている。
なんか羨ましい職業だなぁと。


アカデミズムの世界だと、論拠がなかったりデータがなかったりするのだけど、
そういうのじゃないので、自由に科学を遊んでいるような印象を受ける。




面白かった話は、

「音楽家は、時間が一直線方向に進むこと束縛されている。
また、空間も決められている。
オペラであれば、指揮者が立っている位置で、すべて音の大きさなども調整されている。
今回の印す多レーションで、その縛りから脱してみて、これが本当に楽しい」

という話。(すべて意訳です)


時間が束縛されているというのは、
作曲とは、時間軸方向に、どういうタイミングでどの音符を置いていくか、という作業であるとのこと。
初音ミクのソフトの画面のように、x方向に時間が流れて、あるタイミングにこの音を何ミリ秒間出す、みたいな。)
それを、本当にミリ秒の単位で管理していると。


今回のインスタレーションとは(時間がなくて見れてないのだけど)、

暗い空間には,薄く水が張られた
1.2m四方,30cmの高さのアクリル水槽が3×3個グリッド状に吊られ,
それぞれの両端にスピーカーが設置されています.
水槽の内部では超音波によって人工的な霧が発生し,
透過と不透過をつなぐかのように流動的なパターンがたえず生みだされていきます.
それぞれの水槽の上に設置されたプロジェクターから発される映像——水槽全体で時に連動し,
時に個別の映像として出力—ーは,水と霧の織りなす動的なパターンをスクリーンとして通過することで,
映像を結びつつも,たえず流れによって融解され,意味と無意味,具象と抽象との狭間をたゆたい続けます.

音はある程度の制約をおいて、基本的にはランダム。
空間は、聞く人が歩き回るのでこれもランダム。
スクリーンも、霧という制御できないものにうつすのでランダム。


uncontrolable なこと、というのに意識をおいているそうだ。

「人間は、世界を全て人工物で覆ってしまいたいという欲望を持っている」
「この部屋の中で人工物じゃないものは、私たちの身体だけです。
私たちの身体は人工物じゃないから、自分でコントロールできない。しわができたり、病気になったり。」
「台風や津波がくることを"非日常"と言っているが、
自然からしたら、ああいうのが"日常"なのです。」

というのが、教授の考え。


つまりは人間を含む「自然」はすべてuncontrolableなものである
ということにもう一度気づく、ということなのかな。



僕が思ったのは、このランダム性ということはやはり魅力があって、
インターネット世界、ケータイ世界(ユビキタス世界)という時代に入ってきて、
人々の生活からも、時間と空間という制約が外れてきているということ。


時間的制約をなくしている例は、
情報が一瞬で世界中に伝わるようになったり、
メールやニコニコ動画のような非同期なコミュニケーションであったりと、
「情報」にまつわる時間的な感覚はこの10年間で激変した。


空間的な制約というのも
インターネットの出現で、まず情報の伝達に関する距離的な制約がほぼなくなったし、
最近のユビキタスな感じのネット生活だと、
「インターネットやメールは家のパソコンの前で」
という10年前からできた常識が早くも変わりつつある。
自分の作業環境はウェブにあるし、ケータイでどこでもつながることもできるし。


むしろ逆に、
「今ここにいる」
ということが重要な意味を持つようになってきた。
空間的制約がなくなって、空間的な意味づけがされるようになってきた、みたいな。



こういう新しい時代をイロイロと表現されていたのだと思う。
そしてそれらは uncontrolable。
でも、この混沌とした中に、「美」を見出している。
このあたりの感覚が、とても好ましかった。


複雑系ということに興味がある僕としては、やっぱりそういう視点が面白い。
uncontrolable で全く予測ができない系の中で、
「美」を見出せるということは、そこになんらかの「秩序」が生まれているということ。


それが何なのかを、自分自身、早く感じてみたい。

Life アーティストトークに通りかかった(2)

もう1つ、高谷史郎さんがとても面白いことを言っていた。

「最近は、映像を写す媒体として、
スクリーンはどんどん巨大化させて、どんどん高解像度(時間的にも、空間的にも)になっている。
それは自分もやっているし、否定はしないけど、
技術を使いたいだけになっている部分もあるのではないか。
今回は、違うアプローチをしてみたかった。」


「最近ではパソコンの画面から「情報」だけを抽出することに皆がなれすぎていて、
映像がパソコンの画面であろうと、スクリーンであろうと、どんなものに映っていようと、
人はそこから「情報」だけを抽出してしまう。
「何に映っているか」は関係なくなっている。


今回はあえて水の中に発生させた「霧」に映像や字を映すことで、
(霧の動きは制御できないので)画像がぼやけたりする。
そこで、人が「情報」を読み取ろうとすると、
ついつい霧の粒とかが目に付いてしまう。
そこで初めて、「何に映っているのか」ということに気づく。」

この話は、最近のモノの価値ということに結構関わっていると思った。


以前に梅田望夫さんが、
「本の内容がネットでも流通されるようになった時代の
本の価値は、「情報」が読みやすい形(本というモノ)にまとめられること」
と言われていたが、そんな感じ。


最近、「モノ」よりも「コンテンツ」に価値が流れ出していて、
徐々に「モノ」の価値が薄れてきている。


「モノ」が人間の感覚器を上回るオーバースペックになっているからかもしれないが
(解像度が人の目が感知できる限界を超えているとか、
音が異常によいけどほとんどの人には違いが分からないとか)、
「モノ」の存在感が薄くなってきているのは確かだ。


確かにモノは「目的を果たすためのツール」にしかすぎないので、
それは悪いことではないのだが、モノをつくっている現場を横目で見ている人間からしても、
それは少し悲しいことだ。


「いいモノ」はやはり素晴らしい。
そういう揺り戻しも、このインスタレーションでは予測されているのだろう。



時間と空間、情報化と脱身体化、「ここにいることの価値」、「モノの価値」等々、、、
結構 いろいろなことを考えさせてくれるようだ。
また観にいこうと思う。