Wikipediaは集合的結果(肥溜め)でなく、結果の連続的集積(消化器官)なんじゃないか


Wikipediaはネットの肥溜 – 西和彦 – アゴラ
自分が時々Wikipediaの記事を書いていることもあって、大物の釣りエントリに全力で釣られてみる。

アスキー創始者である西さんが、日本語版Wikipediaといったいどんな大喧嘩を演じたのかまったく知らないのだけれど、文面からはWikipedia記事「西和彦」の記述をめぐるトラブルだろうと推測できる。事実関係如何を問わず、あるいはプライバシー保護の面で、本人を憤激させる記述がなされていたので直接ねじこんだ、といったあたりだろうか。
怒ってクレームを持ち込んだら、解決できなかったので挑発に乗ってマスコミにチクり、さらに本国Wikipediaの代表にチクり、話はできたけれどやっぱり解決できなかったので日本語版Wikipedia運営者を相手にしないことにしているという話を書いていて、本人はどこか得意気だけれど、僕には何が言いたいのかよく分からない。ただ読んでいる身としては、日本語版Wikipediaがコケにされてなんだか腹が立つというだけの話だ。

エントリにある議論のレベルは残念ながら高くない。僕も高校生くらいだったらだまされるかもしれないが……。

僕たちの世代は新聞や本の「活字を信じるな」といわれて育った世界である。それが今ではネットになった。「ネットに書いてあることを信じている人はいない」と思うのは僕だけではないと思う。

そもそも、この認識はどこかおかしい。西さんは1956年生まれということだが、20以上年の離れた僕の世代は、彼らの世代から「本を読め」「新聞を読め」とばかり聞かされて育った活字離れ世代だ。どう読めなんてことは一つも習っていない(ありがたいことに、と言うべきか)。だから活字への接し方がネットへの接し方に平行移動したというのは筋が通らない。今の中高生のように、物心付いたら携帯電話や高速ネット接続環境の中に不可避的に放り込まれていた世代なら話は別だが、僕たちはある年齢で「自分で選んで」ウェブ利用を始めた。つまり僕たちは(先の世代も含め)このどこか気持ち悪いインターネット時代を築き上げた当事者であるわけで、責任があるはずだ。Windows95の発売当時僕は浪人生だったが、言論を築き文化を構築する意味では、僕より上の世代は当然、浪人生より大きな影響力をもっていた。まして、西さんはパソコン通信時代以前から日本のコンピュータ文化の先端を担う立場の人でもあったわけだ。
僕や、僕の知っている限りの人について言えば、「ネットに書いてあることを信じている人はいない」などと口走るような人はいない。ネットやパソコンと一番縁の薄い=ウェブ文化への理解や共感がない生活を送っている人でもだ。もしこの文が正しいのなら、ネットに書いている西さんの意見など誰も信じないということになってしまう。言えるとすれば、「ネットに書いてあることは本当も嘘もある。どう読むかは自分しだいだ」ということだけだ。

いいWEBもあれば、悪いWEBもある。今のネットは単一のWEBの全体集合だけでなく、WEBとGOOGLEがセットになっていわゆるWEBとして利用されている。

そして、不用意に乱暴に、こう言い切ってしまうところが、一番僕をいらいらさせることなのだ。
「いいWEB」「悪いWEB」などというはっきりしたモノは、もはや存在しない時代になった。善悪は個人(およびあらゆる権力)の政治的な主観にすぎないし、ある立場の人間にとって自明で崇高なことが、別の立場の人間にとって絶対に妥協できない邪悪な考えになるという事例を、僕たちはたくさんの痛みを伴いながら経験してきた。そして、そういう真実がこんなにもたくさんの人たちに理解されてきたということこそが、インターネット社会の最大の恩恵ではなかったのか。
ある人たちにとっては唯一最大の発信手段になりもするウェブというインフラは、Googleを一義的に必要とするわけではない。だいたい、「単一のWEBの全体集合」があったとしたら、それはウェブですらない。リンクが万能でページランクがモノをいう、古き良き時代の幻想でしかない。そしてどこか、お役所の発想なのだ。例えばネットで犯罪予告や殺人依頼などの犯罪事例が増えたとなると、お役所はサイバー犯罪対策本部などを作って全体を把握しようとする。一方で、新しい技術は「予告.in」のような仕組みを作り出す。どちらも人間に頼っているのは同じだが、予告.inは「誰からも頼まれたり、雇われたりしていない」点で発想が異なる。そこを貫くのは自浄作用の原理だ。

僕の主張を書いておくと、何をおいても「Wikipediaは百科事典たりうる」という一点に尽きる。終わりのない自己改変と加筆。Wikipediaはその自浄作用ゆえにこそ意味があるので、議論の食い違いさえもWikipediaの資産である。そして、それができる場所は現在のところ、Wikipediaをおいて他にないのだ。
僕が書くのは主に歴史・地理・文化の分野だが、こうした議論の土壌はむしろ西さんが問題にしているような存命中の著名人や、利益に直結する企業についての項目の編集過程で整えられてきた。そこでは、一方的に相手を否定したり、議論を放棄する論者はとても丁寧に淘汰されていく。確かに質の低い記事はまだまだ多いし、2ちゃんねるの書き込みレベルの書き込みすらときどき見られる。だが、そう思うなら誰でも加筆訂正すれば済む。単純だ。それは、自分に不都合な記述を片っ端から削除していくような態度とは正反対の、未来志向の考え方でもある(いいことだけ書いてほしいという発想の、どこが百科事典だろうか)。

Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか - Wikipedia
Wikipediaを編集する上でいつもこのページを一番念頭においているが、これはWikipediaに限らず、あらゆる文章を書く人間にとって重要なことを含んでいると、いつも思っている。