格差社会

アメリカの大統領選挙でトランプが躍進を続けている理由として、現在のアメリカでは格差を生んでいる社会構造に不満を持つ人が多く、その殆どの人たちが既存の価値観をぶち壊す可能性をトランプに期待しているという報道がされている。日本でもアベノミクスに期待はしてみたものの格差は広がるばかりで出口が見えない状況だと言われている。ここで格差といわれているものとは一体何なのか考えてみたい。
格差という言葉はその言葉の前に様々な言葉を付けて言われている。現在は経済格差、所得格差、地域格差等が言われているが、人種や民族、学歴等は差別という言葉の前に付けられており、格差と差別の違いについて考えてみたい。
差別とは自分が価値観を転換すれば乗り越えられる道徳問題であるが、格差は自分が努力しても乗り越えられない社会構造問題ではないだろうか。現在、起きているヘイトスピーチ問題も半島の人間を差別することによって自分の溜飲を下げているだけである。日本列島の文化が半島経由で来たのか、大陸から直接来たのか、それによって国の文化の優位性が測れるものではない。人が行き来すれば様々な文化も行き来し、それが混ざり合ってその国独自の文明となる。従って文明に格差は無く、半島と列島の文化の比較のなかで自国の優位性を主張するヘイトスピーチは自分たちの道徳観のレベルの低さを内外に示しているだけである。
差別は個人の道徳観に起因するものであるが、格差は何処から生ずるのか。社会構造としての格差を人間が意識したのは、多分キリスト教産業革命ではないだろうか。キリスト教ユダヤ教ナザレ派の流れを汲むものであるが、民族を超えた普遍的宗教となる過程でヤハベ以外の神は神とは認められなくなった。つまりヤハベとキリスト以外の神は神として認めず、そこには身分社会としての大きな格差が生ずるようになった。ローマカトリック協会はこの身分格差構造社会をつくり上げることによって、地域社会の人的管理システムを構築したのである。
一方、身分格差とは別に経済格差は産業革命以前には殆ど存在しなかった。何故ならば身分制社会の頂点にいる王や僧侶や貴族は非常に少数であり、商人を除く一般大衆はその経済格差を意識することがなかった。一般大衆とは殆どが農家であり、その生活に格差は無く、皆貧しかったのである。しかしノーフォーク革命により農村人口に余剰が生じ、都市へ流入して産業革命へと移行するのであるが産業革命前と後では何が違ったのか。それは革命前と較べて革命後は社会全体の富が著しく増大し、その富の蓄積と配分によって経済格差が生じたのである。産業革命によって従来は貴族層しか味わえなかったようなことが一般大衆も可能となったのである。ノーフォーク革命によって畜産動物の通年飼育が可能となり、従来は富裕層しか食べられなかった肉食が一般家庭でも食べられるようになったのだ。皆が貧乏でいる時代は貧乏を意識することが無かったが、社会全体が豊かになるとその豊かさのレベルに差が生じ、それを意識することによって格差が生じるのだ。
日本も高度経済成長の時代は冷蔵庫、テレビ、洗濯機などが家庭に普及し一億総中流と呼ばれ、あまり格差を意識することはなかった。しかしバブル崩壊以降はデフレが進行し、経済が停滞するなかで資産格差が顕在化し、今日に至っている。アベノミクスはもう一度経済成長をすることによって格差解消を目指すものであるが成功しているとは言えない。サミットで世界経済の危機を訴えて財政出動に対する大義名分を得ようとしたが失敗している。
私はここでもう一度自分たちの暮らしを考えなおす時期にきているのではないかと思う。暮らしの豊かさを考える時に、私は1980年代のヨーロッパの暮らしを思い出す。当時の日本はバブルの真っ最中でアメリカに追いつき追い越せという状況で、ヨーロッパは没落のヨーロッパと日本では呼ばれていた。そんな思いでヨーロッパに赴任してみて驚いたことは、彼らの暮らし方であった。日本のように便利さだけを追求するのではなく、従来からの暮らしを大切にし軽佻浮薄なところは殆ど見られなかった。電磁レンジの普及率は5%以下であり、何故普及しないのか尋ねると必要がないからだと応える。隣が買っても隣は隣、自分の暮らし方に自信を持っているのだ。そこには古くからの身分格差はあるものの経済格差はあまり感じられず、多分それが高福祉国家へ移行する前提としての社会状況だったのだと思われる。
日本人も自分たちの暮らしの足元を見つめなおし、豊かな暮らしの本質を見極める時ではないだろうか。豊かな暮らしは高度成長以前の時代のように政治家が実現するものではなく、私たちの暮らしの哲学を私たち自身がつくり上げることによって実現するのではないだろうか。