『陰影礼賛』

facebookに京都・雲龍院と鎌倉・明月院の障子窓などによる借景の写真を掲げた。(末尾に掲載)
それについて、ある人から「古の人と現代人の輝度の感覚が違うのではないかな?」というコメントを貰った。


輝度なんて専門用語を使わなくても、昔は油断するといつも暗闇が支配していたと思う。丑三つ刻というときの「刻」というのは、手をかざして掌の掌紋が見えるときから見えなくなるときまでが昼間で、見えない時間帯は夜にしていた。それをそれぞれ六等分したのが一刻になる。(まあ相当アバウトだから夏と冬では一刻の長さが違う。)
その漆黒の闇を照らすのは蝋燭か行灯か松明だけ。でもそれらの灯りが届かないところは闇が我が物顔だ。鬼や夜叉が跋扈する。昼とて、部屋の片隅や奥まった部屋には闇が漂う。

そんな社会に電気が入ったのはおおよそ100年前。でもまだ蝋燭や行灯の代替品であった。敗戦後、まったく文化的でない「文化住宅」に「蛍光灯」というペアリングが暗闇を追放していった。これがドラスチックだったと思う。天井からぶら下がった蛍光灯でドカンと部屋全体を青白く照らす。このデファクトスタンダードでしばらく日本人はやってきた。
屋外では、全国をネットする電信柱の電灯とコンビニエンス・ストアが大きい。明るすぎて夜の闇を大切にしないという声はときどき上がるが、人間の鬼とか夜叉を放逐する役割は大きいだろうとは思う。

アメリカの住宅にはこの全体照明という考えがまったくないと思う。夜になると屋外と同様に暗くなる。ダイニングではまあまあ小ぶりのシャンデリアなどで明るいが、リビングになると暗い。だが団欒をするソファー脇とかコーヒーテーブル脇にはスタンドがある。ベットサイドにもスタンド。それ以外のところには暗闇が十分に息づいている。
ロスアンジェルスから戻ってきて、日本の我が家は持ち帰ったランプ、スタンドの類が溢れてしまった。)

レストランも日本人からしたら暗い。あるレストランではメニューが読めない。テーブルの上の小さなランプを引き寄せそのか細い灯りで照らしてやっとの思いで読む。

虹彩が薄い彼らコケイジャン(白人)はそれこそ「輝度」が高いのは苦痛らしいのだ。太陽の下ですぐにサングラスするのはそのため。もともとが欠陥品に生まれついているんだね。

それとどう関係するのかよく分からないのだが、彼らは蝋燭=キャンドルがめちゃめちゃ好きだ。どの街にもキャンドルショップはあるので、人気の程が分かる。スタンドとかランプも出来る事ならキャンドルに差し替えたいと思っているよね。
あるアメリカ人の家を訪ねて、風呂に入ることになった。電気は消えていて何本ものろうそくが揺らめいているのである。オカルト映画のように不気味なものだ。その上、蝋の燃える匂いが私の苦手だ。直ちに頭が痛くなった。なんでこんな目に遭わなくてはいけないのだ?


相当前だが、グアム島からさらに飛行機で行く小さなロタ島に行ったときに、映画館があるらしいから映画でもみに行くべということになった。映画を観ながら何の気なしに天井を見上げたら美しい。よくよく見たら星空であった。宇宙だ。“青天井”って言葉があるが、この場合は“星天井”だ。映画を観ずに、その星天井ばかり観ていた。
フィジーに行ったときの夜空ももの凄く綺麗だった。まるで漆黒のベールに無数の穴が空いていて、そこから光が漏れ出ているような光景であった。
都会の明るさが星を見えなくしている。月の存在感も薄くしている。ときたまこういうところに行くと、月は美しくわれわれは宇宙の一部なんだということが天然自然に解る。


谷崎潤一郎もエッセイ『陰影礼賛』で、まだ電灯がなかった時代の美の感覚を論じている。

「……こうした時代西洋では可能な限り部屋を明るくし、陰翳を消す事に執着したが、日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用する事で陰翳の中でこそ生える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の芸術の特徴だ」

でもね、潤ちゃんには悪いけど、今やアメリカ人の方が“陰影”を大切にして生活をしていると思う。
昔の日本人や今のアメリカ人は暗闇とか陰影に潜む鬼とか夜叉とか物の怪と仲良く暮らすってことがかえって贅沢なんだってことを知っているのだろうね。





<京都・雲龍院>






























<鎌倉・明月院


(完)

感謝祭

「感謝祭」は11月の第四木曜日になっているので、今年は11月の28日であった。もう過ぎて10日程も経つ。
なんでもダボハゼのように食らいつく日本人もこのサンクスギビングにはさすがに縁遠い。
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ボストン近郊のプリマスに来ている。ピリグリム・ファーザーズ(清教徒)たちが“ミルクと蜜”のような夢を積み込んだ「メイフラワー号」で新大陸を目指して辿り着いたところがここだ。アメリカの「聖地」の一つ。
11月だというように凍るように寒く時折雪がちらつく。彼らが第一歩を記した岩がパルテノンのような建物でメモリアムされている。そりゃそうだ、ここから今のアメリカ合衆国が始まったようなものだから。



 
その公園の中央に銅像がぐいっと虚空を睨み仁王立ちしている。「マサソイト像」だという。

この清教徒たちがよれよれになってここに漂着したときにはもっと寒い12月だったという。
見るに見かねた酋長「マサソイト」が来春の為に貯蔵していたタネトウモロコシとかタネイモとか七面鳥を彼らに提供してやり、家や土地……「プランテーション」までも与えた。

……この故事が「感謝祭(サンクス・ギヴィング・ディ)」の起こりなんだ。もともとはインディアンに感謝するのがその精神である。
しかし、そのイギリスからの“食いつめ者たち”の子孫は見る間に繁殖し傲慢になりインディアンたちのさまざまなものを貪るようになり、「マサソイト」の息子は遂に立ち上がり白人どもとの戦いに打ってでた。よく戦ったが敗れた。
もし、「マサソイト」が清教徒たちを厳寒の冬に放置してたり皆殺しにしていたなら、アメリカの歴史はまったく違ったものになったと思う。

アメリカの東はイギリス風な地名が多く、南とか西はスペイン風が多いのは歴史的に植民地であったことによる。ただ、この広大な大陸の内部の方までは彼ら白人が浸食できなかったせいなのか、アメリカン・インディアンからの地名が多い。州名でも、アイオワ(美しい土地)、アラバマ(茂みを開く人)、アリゾナ(小さな泉)オクラホマ(赤い人)、オハイオ(巨いなる湖)、テキサス(友人)などなど……。 インディアンの酋長の名前がそのまま地名になっているところも結構あるが、この「マサソイト」から名付けられたのが「マサチューセッツ州」とシアトル酋長からの「シアトル市」が」が有名だ。

プリマスへの訪問から15年後くらいになろうか、ニューメキシコ州サンタフェからさらに高地に上ってコロラド州境に近いタオスのプエブロ(インディアン部落)にいた。

そこのホピ族のインディアンと話したときに、その部落に毎年決まって感謝祭に山のような荷物を抱えてやってきて村中の人々全員にプレゼントをして何日かは泊まって帰って行く日本人(多分日系人)がいると聞いた。ボストンで医者をやっている人物だという。プリマスの人かも知れないじゃないか……。

いずれにしろ、その彼はインディアンからの愛とか好意を忘れずにおこうという「インディアンへの感謝祭」を律儀に守り通している。



当事者のインディアン達にとっての「感謝祭」は、この日を境に先祖達の知識や土地がヨーロッパからの移民達に奪われた「大量虐殺の始まりの日」としている。とりわけマサソイトが率いたワンパグノアグ族を中心とする「ニューイングランドアメリカンインディアン連合」はこの日を「全米哀悼の日」として毎年デモ行進を続けている。

アメリカン・インディアンの友人がいるアンジェリーナ・ジョリーは「感謝祭」に対して拒否反応を示しているらしい。(母親にアメリカン・インディアン「イロコイ族」の血が混ざっていることが大きいと思うが……)

そして歴史の教科書をアメリカン・インディアンにも配慮したものに書き直すように求めている。今の物は「ピリグリム・ファーザー」イェーイ!一色なんだから。しかし、伴侶のブラピーは「ターキー食いたいなァ」って横で呟いているらしい。


そんなことがあったとしても、いいなこの習わしって思ったこと。この「感謝祭」から「クリスマス」までが、アメリカ人たち全員が浮き足立ってしまう一ヶ月。まあ、長めの正月って思えばいい。広いアメリカを散り散りになった家族がなんだかんだと集まる期間。
で、家族から離れて独りぼっちでいる人に声を掛けて、「ターキーうまく出来たから食べにこない?」って赤の他人にまで声を掛けるんだね。事実私も何度か誘われて一緒した。
ここんところだけ……アメリカン・インディアンの“見知らぬ人にまで温かくもてなす”精神……が息づいているんだね。

アメリカは「メルティング・ポット」(人種の坩堝)なんかではなく、かき混ぜられた「サラダ・ボウル」に過ぎないという言い方がある。そのかき混ぜられた底には傷ついた者達が沢山いる。そうだとしても、それらさまざまな民族のエキスとかテイストとかエトスとかが混じり合って行くものなんだね。
アンジー自身がスロバキア、ドイツ、フランス、アメリカン・インディアンの「サラダ・ボウル」なんだもの……。

(完)