昭和天皇は日中戦争に関してなんらかの発言を残しているのでしょうか?

蘆溝橋事件について独白録で次のように述べています。

日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして、蒋介石と妥協しょうと思ひ杉山〔元〕陸軍大臣と開院宮〔載仁〕参謀総長とを呼んだ。
丁度この頃北満の国境に乾岔子島事件が起ってゐたので、世間へはこの為に呼んだものと「カムフラージ」されたが、実は対支意見を求める為に呼んだのである。
若し陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛〔文麿〕に話して、蒋介石と妥協させる考であった。これは満洲は田舎であるから事件(満州事変)が起っても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞があると思ったからである。
当時参謀本部は事実石原莞爾が采配を振るってゐた。参謀長と陸軍大臣の将来の見通しは、天津で一撃を加へれば事件は一ケ月内に終るといふのであった。これで暗に私の意見とは違ってゐる事が判ったので、遺憾乍ら妥協の事は云ひ出さなかった。
かかる危機に際して蘆溝橋事件が起ったのである。之は支那の方から仕掛けたとは思はぬ、つまらぬ争から起ったものと思ふ。

1937年8月ごろの日中戦争日中戦争の拡大についても次のように述べています。

その中に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、 私は〔八月に〕上海に飛火した以上拡大防止は困難と思った。
当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌ってゐたのだ。湯浅〔倉平〕内大臣から聞いた所に依ると、石原〔莞爾・参謀本部作戦部長〕は当初陸軍が上海にニケ師団し出さぬのは政府が止めたからだと云った相だが、その実石原が止めて居なのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思ったので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。
私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云ってゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をここでも取り逃した。