秀子の車掌さん

晴れ。
福知山線の事故。病院でひとり亡くなったので、犠牲者がついに百七人になったそうです。
午後、むしょうに映画を観たくなってきたので、なにか短いものをとおもって、成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』(1941,南旺映画)を観ました。以前から観たかった作品です。原作は井伏鱒二の『おこまさん』で、高峰秀子が「おこまさん」役を演じています。つまり「秀子」は出てこないわけです。それだのに作品名に「秀子の」を冠するというのは、現代ふうにいえば「アイドル映画」だから、ということになるのでしょう。
高峰秀子の主演作品には、千葉泰樹『秀子の応援団長』(1940,南旺映画)というものもあって*1、私はこれらを勝手に「秀子シリーズ」と呼んでいる(と言っても二本しかない)のですが、その『応援団長』と較べるとこの『車掌さん』のデコちゃんは、ずいぶん色っぽいような気がします(たった一年を経ただけなのに)。十六〜十七歳にかけての作品であるだけに、それも当然なのかもしれません。
予想どおり、素敵な小品でした(なぜ、当時これが酷評されたのか全く分りません。あるいは全篇がロケーションだったからでしょうか)。太平洋戦争のはじまる少しまえに製作されたものだとはとてもおもえません。たとえば、おこまさんと園田(藤原鶏太)との次のようなやり取り。なんだかホノボノとしているではありませんか(「会社」というのは、二人がつとめている「甲北バス」のこと)。

園田「社長なんか、会社を与太者の集会所と心得てるんだからな。うーん。運転手の俺はバスの方が大事だ。何しろ俺の楽しみは、車を愉快に運転することだからね」
おこまさん「そうよ。私だって会社のことを思うってより、自分の仕事を立派にやりたいの」
園田「そうだとも。あ、ねえ、おこまさん。二人ともいま評判になってんだそうだよ」
おこまさん「なんで?」
園田「うん、『国乱れて忠臣あり』で、会社は乱れているけれども忠臣が二人いるって」
おこまさん「私たちがその忠臣なの?」
園田「うん、そうだよ」
おこまさん「大変ねえ」
園田「忠臣が少し大袈裟だなァ」
おこまさん・園田「アハハハハ」

おこまさん、園田だけではなくて、登場人物がみな愛らしい。小説家の井川(夏川大二郎)、どこか憎めない甲北バス社長(勝見庸太郎*2)、下宿のおばさん(清川玉枝)…。
やや皮肉な結末も、さらりと描かれているので暗さがまったくありません。それから小道具やらちょっとした仕種やらがいちいち効果的で、演出にも要注目です。
ところで当時、高峰秀子は多忙な日々を送っていたようです。彼女は後年、こう書いています。

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)
「昨日消えた男」「馬」「阿波の踊り子」「女学生日記」「秀子の車掌さん」と、私は五本の映画を撮り、その間を縫って、日劇、新宿東宝、渋谷東宝、江東劇場などで、自分の出演作品の間のアトラクションに出演していた。ハトポッポの譜面もよめない私が、十人のバンドを後ろにしたがえて、おこがましくも歌をうたっていたのである。上演時間は三十分。歌は四曲、土、日曜は四回。ウイークデーは三回であった。寝る暇もなかった。客席は国民服とモンペで埋まり、客席の後方の一段高い臨覧席には、警察官と憲兵が並んでいた。(高峰秀子『わたしの渡世日記(上)』*3文春文庫,1998.p.278)

また、園田を演じた「藤原鶏太」とは、藤原釜足のこと。彼は、この頃(昭和十五年の『支那の夜』あたりからか?)の映画には、「藤原鶏太」という藝名で出演しています。「藤原釜足」が不敬にあたるとして改名を余儀なくされていたからです。

歴史を動かした昭和史の真相200―激動と波乱の時代の真相を抉る! (日文新書)
風紀上面白からぬ芸名、外国人とまぎらわしい名前は、いっさいまかりならぬ。これまた不粋な通達が、昭和十五年三月二十八日、内務省から映画会社各社に流された。
内務省から、まずヤリ玉にあがったのは、次の十六人の芸名であった。漫才のミス・ワカサ、新興演劇部の平和ラッパ、レコード会社のミス・コロンビア、ディック・ミネ、宝塚の園美幸、御剣敬子、椎乃宮匂子、東宝藤原釜足、日蓄のサワ・サッカ、松竹のエミ・石河、南里コンパル、日活の尼リリス、熱田みや子、新興吉野みゆき、エデカンタ、星ヘルタ。(保阪正康『歴史を動かした昭和史の真相200』日東新書,2003.p.79)

そういえば、この映画には、車掌の口上に「東洋一の…」が出てきたので、すこし反応してしまったのでした(一昨日の記事をご参照ください)。

*1:「打って〜打って〜打って〜♪」と応援歌をうたう高峰秀子が、たいへん可愛らしい作品です。よみうりテレビの「シネマダイスキ」に、「私を野球に連れてって!」という特集があって、その特集で放送されました。地上波初だったのではないかとおもいます。この特集ではほかに、『野球狂の詩』『男ありて』『あなた買います』などが放送されました。

*2:映画監督でもあります。脚本も書いていたようです。

*3:またこの本には、『秀子の車掌さん』のスチールも収めてあります。