続・「利休鼠の雨」とは?

(第27号、通巻47号)
    
    『城ヶ島の雨』の歌詞の中で分かりにくいところがもう一個所ある。5行目の後半の「通り矢のはな」だ。「通り矢」は、「(京都の)三十三間堂の通し矢」で知られるように、普通は「通し矢」という。もともとは、矢先を上に向けないで遠い距離の的を目がけ矢継ぎ早に射通すこと、を意味した《注1》。通し矢の別名が「通り矢」だ。

    城ヶ島の目の前の三崎には「通り矢」という地名がある。この地名については、源頼朝が陸地と離れた所にある岩との間で通し矢をしたことに由来するという説や、戦国時代、房総の里見義弘が三崎に攻め入った際、里見水軍の兵の矢が海峡を射通したことが元になっている、という説もある。

    ついで「通り矢のはな」の「はな」も、二通りに解釈できる。一つは、鼻先の「はな」で目の前のこと。もう一つは、ものごとの突き出た部分とか先端と言う意味の「端」だ。

    白秋自身は後年「城ケ島の思ひ出は尽きない。相州の三浦三崎、その向こうが崎の突つ鼻、左に通り矢の岩を望み、正面に城ヶ島の遊びケ崎を眺めて暮らした私たち家族であつた。大正二年の夏である」と説明している《注2》。しかし、この回想では当時の自分の苦衷についてはなにも言及していない。

    いずれにしろ、島と陸地の間の狭い所は海水の流れが速い。そこで、「言葉の魔術師」の白秋は、通し矢の矢継ぎの「早さ」と海の流れの「速さ」を重ね合わせて、当時の胸の内を表現したのではあるまいか。つまり――

    城ヶ島に暗緑色の灰色がかった雨が降っている。時折、雨滴が白く光り、霧のようにも見える。暗い雨は、苦難と悲嘆の象徴、時にそれが光って見えるのはほのかな希望の兆しだ。窮状から一刻も「早く」抜け出さなくては。その心の内を白秋は「利休鼠」の色に託し、水墨画のように写し出した詩、という解釈だ。

    ともかく、巧みなレトリックの詩である。大正ロマンあふれる旋律と相まって、「利休鼠」という言葉が一般に知られるようになったと言われる。曲と共に、情趣に富んだ美しい日本語も後世に歌い継ぎ、語り継いでいきたいものである。   


《お断り》 先週号にも書いたように、前回と今回のブログは、gooブログ時代の06/09/20号で取り上げた「利休鼠の雨の色」に新しい知見を加え、大幅に書き直したものです。

《注1》 『広辞苑』第5版(岩波書店)、『日本国語大辞典』第2版(小学館

《注2》 『白秋全集36 小篇2』(岩波書店

《参考文献》 『言語−ことばの研究序説』(エドワード・サピア著、岩波文庫

《参考サイト》 北原白秋記念館(www.hakushu.or.jp/note/main2.html)