夏の美術展の第一弾

 夏の美術展の第一弾として、兵庫県立美術館で開催中の2つの展覧会「美しき挑発 レンピッカ展 本能に生きた伝説の画家」と「麗子登場!−名画100年・美の競演 神奈川県立近代美術館×兵庫県立美術館」の2つを見に行ってきましたので、その感想です。

「美しき挑発 レンピッカ展 本能に生きた伝説の画家」

 行く前は、こちらがメインでした。2週間ほど前にNHK日曜美術館で紹介されていたりと、結構TVなんかでも取り上げられているような気がします。というのも、作品の大半が個人所蔵になっているために一度に展示する展覧会を開くのが難しいので、取り上げられる回数が多いのかもしれません。
 で、私が見た感想を最初に言いますと、「思ったよりも、まずまず」な感じです。最初に、展覧会の案内チラシに掲載されている作品がほとんど登場します。食べてゆくために、レンピッカは画家になり初期の段階では大成功を収めるわけですが、後に、時代の変化とともにその存在自体が忘れ去られてゆくという結末をたどり、レンピッカ自身も苦悩と新たな作風への挑戦を続けた末に最後に再評価をうけるものの、その際評価を受けるのは、後年の作風ではなく初期の作風であったという皮肉。このストーリー性も魅力の一つになっているんだと思います。また、レンピッカ自身のポートレート写真も複数枚展示されていましたが、まさに「カメラ目線」でポーズを決めたものばかりで、ナルシストチックに感じました(あまりに、カメラ目線なので、詩人中原中也ポートレート写真を思い出してしまいました)。
 具体的に、私が見た感想ですが、初期の作品が最も優れている作品群になるわけですが、失礼ながら一瞬見た目は「CG作品か???」と思わせる色調や描き方のように感じました。それが、徐々に変化してゆき、なんだかフェルメール調の絵画であったりともがき苦しむと同時に過去の作品からヒントを得ようとして挑戦するものの、その先には結局のところ進むことは出来なかったというところでしょうか?
 しかし、興味深いのはこの第一次大戦と第二次大戦の間のこのレンピッカの絶頂期とその後の凋落が意味するの物は、「革新性(先進的)→保守的(古典的)」への流れとも見ることが出来て興味深いものがありました。
 先日読んだ「モードとエロスと資本」や「フェルメール 〜謎めいた生涯と全作品〜」を読んでも思ったのですが、今まさに混沌としたある意味での社会全体がカオス状態にある中で、その先にあるものは、ひょっとすると革新的ではなく保守的(古典的)への流れであり、それは、自由的な雰囲気から固定的な時代への流れの真っ只中にいるのではないかと思いました。

「麗子登場!−名画100年・美の競演 神奈川県立近代美術館×兵庫県立美術館」

 引き続いて、フロア別で行われていた「麗子登場!−名画100年・美の競演 神奈川県立近代美術館×兵庫県立美術館」を見てきました。これが、思っていた以上に大規模な内容になっており、明治初期の作品から現代にいたるまでの洋画・日本画・ブロンズ像など幅広い展示となっていました。中でも印象に残ったものは、

  • シカゴ万博の日本観に展示された作品→浅草の雷門かな???を描いた作品で、日本製品を売り出す際の日本文化の発信目的で展示された面が大きいと思います(参照:博覧会の政治学〜まなざしの近代〜
  • 岸田劉生「麗子立像」→今回の展覧会の目玉の作品。やはり一際目立っていました。
  • 浅原清隆「海を見た」
  • 小磯良平「斉唱」
  • 松本竣介「立てる像」→昔、中学校の美術の授業で模写をさせられたような記憶がありますが、今になって実物を目の前で見ると、まさに名作であるとひしひしと感じました。
  • 加山又造→タイトルは忘れてしまいましたが、月夜に鳥が描かれている作品で、先に作品を見て「これは凄いな」と思い作者名を見るとなるほどと納得しました。

 とまぁ、ある意味で私的にはレンピッカ展以上に良かったですね。

今回の2つの展覧会その他の感想

 今回、見ていてはっきりと違いが出ていた点は、観覧者の年齢層です。レンピッカ展は明らかに20・30代の人、特に女性が多かったですね。それに対して、麗子像の方は、年配の方が多く夫婦で観覧してる人が多かったのも興味深い点でした。

大阪・高島屋へ行く

 さて、帰りに難波に寄って、クリアランスの時期で安くなっていたポロシャツを購入しました。ついでに、いろいろ高島屋店内やナンバーパークス方面を買いもしないのに「見てるだけー」と見てきたんですが、平日の金曜しかも雨ということもあり、正直、閑散としていました。紙袋を持つ人も見たところ非常に少なく、もっと値下がりを待っているのか?それとも、買い物に来る人は土日にやってくるのか?わかりませんが、まぁ、ゆっくりと買い物するには丁度良いと思います。