ローティーンのための代数入門

 今、ゆえあって昔塾で作ったテキストをがさ入れしていたら、『ローティーンのための代数入門』というテキストが出てきた。1985年ものである。
何年生向けであるかはわからないが、中学生向けであることは確かだ。で、序文を読んだら、「まじかよ」、みたいに思ったので、せっかくだから掲載しておこう。我がことながら、『数学でつまずくのはなぜか』 - hiroyukikojimaの日記と同一人物とは思えない。

                  きが・まえ

 ローティーンの頃、僕には世界が全くといっていいほど見えていなかった。不親切で雑然としていてグロテスクでとても恐かった。
コーラのカンやグラビアの切れ端が散らばる街にはグニョグニョした不気味な生物が徘徊していて、不快でいつもいらだっていた。そんな時、僕はスーガクに出会った。なぜか僕はスーガクと友だちになれた。特にダイスウは美しいと思った。毎日、シュウゴウやセイスウと語り合った。スーガクの励ましで、僕は世界を直視し始めることができた。繊毛の生えた軟体動物の上部がヌラリと膨らみ出し、所々がへこんだりでっぱったりして、いつのまにか顔ができあがり、そいつは人間の形に変わった。そして、ひとなつっこいしぐさで、『今度、映画に行こうぜ』などとぼくに話しかけた。ビルや電柱の輪郭はしだいにはっきりとしてきて、時とともに薄汚れた景色が気にならなくなって行った。
 僕はスーガクをわきにかかえて、毎日のように図書館に通った。ある日そのわきの下からキュッという音を立てて、何ものかが逃げた。道に落ちたそいつを見ると、それはクラゲのような形になったスーガクであった。手を出そうとすると、そいつはブヨブヨと重心を変えながら僕から逃げだそうとした。図書館の情景はさらに目をおおうばかりだった。本棚のいたるところから、ゲル状の不透明な液が糸を引い垂れ、一歩足を踏み出すたび、ヒトデもどきの本たちが隅のほうに向かって四散して行った。
 この問題集は、僕がかつて送ったようなサイケな日常に沈み込んでいるローティーンのために作った、スーガクと友だちになるためのハウ・ツウものである。
 スーガクは高慢でわがままでデリケートな生き物だが、一度友だちになってしまえばこれほど楽しい奴はいない。少しでも多くの少年・少女がこの本でつまらない日常を生きて行くすべを得てくれれば、と思う。ただ、最後に注意しておきたいのは、人の優位にたったり、親からこずかいをもらったり、東大に入ったりするためにスーガクを使ってはいけない、ということ。そうするとスーガクは君を裏切り、君は不幸なハイ・ティを送ることになるからだ。
 嘘ではない。僕が実際そうなのだから。
                               '85. 12. 31. 小島寛之

 
 今、読むと、この人、大丈夫か、っつうぐらいの変な文章である。何かやばいクスリでもやって書いてるみたいに読める。痛々しくもある。まあ、当時、P.K.ディックの強い影響下にあったので、そのせいだとは思うけど。中学生だったこのテキストの使用者はどう感じたろうか、と心配になってしまう。後の祭りだ。

 とはいえ、この短文の中に、拙著『数学でつまずくのはなぜか』講談社現代新書のコンセプトとメッセージがすでに萌芽しているのも事実だ。それで、ぼくはぼくなりに一貫しているのだなあ、と自分で感心した。(そういえば、今週水曜の日経夕刊と今週の週刊文春に、この本の書評が掲載されている。前者は竹内薫さん、後者は森山和道さんのもの。どちらも短い文の中に、非常にうまくこの本のコンセプトをまとめてくださっていて、さすがだなあ、と嬉しくなった。世の中にはちゃんとわかってくれる人がいるのだ、と勇気百倍であった。)

 ところで、問題はこのテキストの中身である。序文の次のページには、こんな「使用の仕方」もある。引用しよう。


         本書における著者の意地について

 本書は、集合論整数論・関数とグラフの3章から成る。これらはすべて現代数学の基礎として必要だが、一部の幸運な者を除けば大抵の人に対して難解である。にもかかわらずこの本を作ったのは、生徒たちがチャレンジするためというよりも、教師たちがチャレンジするためである。数学をチャンピオン、学生を挑戦者に喩えるなら、本書は教師=セコンドの意地をまとめたものである。
 集合論には、記号解説に加えて、同値類も収めた。最後に無限集合論の濃度を入れてあるのは、著者の意地である。3年も解説し続けたが、面白かったと言ってくれたのは毎年一人しかいなかった。整数論では、等差・等比列、互除法、素因数分解合同式を収めた。内容はすべて高度だが、著者の意図は、これを題材にして2次式の計算に習熟してもらうところにある。ここにも計算力は意味のあることをやりながらつけるべきだ、という意地が働いている。関数とグラフは、難しいことばかりやりすぎた反省から、基礎固めも入れた。しかし安心したまえ。ウルトラ問題はよりパワーアップして導入されている。さらに最後にはなんと、超準解析の初歩も入っている。実はこれは著者も勉強の途中である。まだよくわかっていないものを載せるなどははなはだ無責任だが、これも意地だといってわかってもらえるだろうか。
                                      著者

 いやあ、このプログラムはさすがにヤバイだろう。完全にブルバキズムの洗礼を受けている。まあ、仕方がないともいえる。ぼくらは中高生のとき、「現代化」という数学プログラムで学んできたし、大学に行ってもその流儀が吹き荒れていたから。こういうテキストで教えることを許してくれた塾も太っ腹だが、何より、こういう塾に子どもをあずけてくれた親の英断はすばらしいと思う。ぼくはたぶん、このテキストを何年か教えて、ブルバキズムの教育への弊害に気がついて、全く反対の方向に向かったのだと記憶している。(その模索の様子は、『数学でつまずくのはなぜか』講談社現代新書を参照してくりたまえ)。
 しっかし、こんなプログラムで教育された生徒たちは、その後どうなったんだろう。知りたいけど、知るのが恐い。(笑い)。
 

 でもさ、教育って、内容よりも、先生がそれを楽しそうに一生懸命やってるかどうかで、生徒の印象って決まるよね。最良のプログラムでも、先生が手慣れて、8割がたの力でやってると、「嫌な講義」になるし、でたらめなプログラムでも、先生が120パーセントの全身全霊でやってると、「とってもいい講義」に思えるものなのだ。