今日は,八丁堀で講習でした。


以前行った湯島天神様の狛犬様です。
かわいいでしょ
八丁堀

寛永年間(1624-44)に通船のため京橋川から隅田川に通じる堀が開かれ、
長さが八丁あったので八丁堀と名づけられたという。鎧の渡しのある日
本橋川、海賊橋から弾正橋までの楓川、中ノ橋のある京橋川、東の亀島川
に囲まれた地域が通称八丁堀。御組屋敷には八丁堀与力・ 同心がいた。
亀島川と大川(隅田川)に挟まれた一帯が霊岸島地域である。明暦の大火
[明暦3年(1657)]前には霊岸寺があった。埋め立て地コンニャク島と
の表示もある。右図の江戸切絵図『八町堀霊岸島日本橋南之絵図』
文久3年・1861)には組屋敷の配置が描かれている。浮世絵師・東洲
写楽の住居があったとされる「地蔵橋」も明記されている。
また、国学者の加藤枝直・千蔭父子や村田春海も居住していた。亀島橋は
八丁堀と霊岸島・ 越前堀をつなぐ役割とされる。
与力・同心
江戸時代の与力は同心とともに町奉行に付属し、主として警察的職務を
担当していた。住居は同心と同じく八丁堀に組屋敷が与えられ、このた
め八丁堀の旦那と呼ばれた。八丁堀には、元禄年間(1688-1704)以降
江戸町奉行所の与力・ 同心約300人の組屋敷があり、300坪前後の土地
を拝領していた。冠木(かぶき)門などを構えて敷地の奥に住み、一部を
儒者や医者に貸していた。同心には100坪ほどの地が与えられていた
が、これも一部は町屋敷となっていく。
東洲斎写楽

江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。1794年(寛政6)5月から翌95年1月
までの10カ月間を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画140余図とい
う多くを発表。その後は浮世絵界との交渉をまったく断ってしまった
謎の絵師。
《増補浮世絵類考》(1844年、齋藤月岑(さいとう・げっしん)編)に〈俗
称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波侯の能役者也 号東洲斎〉と記され、
《諸家人名江戸方角分》には「写楽斎」と号する浮世絵師が八丁堀の地
蔵橋辺りに居住していたとある。