「制度」の中の倫理

村上春樹エルサレム賞受賞記念のスピーチで、ガザ攻撃について言及したそうです。

■村上氏、イスラエル授賞式で講演 「制度が組織的に人を殺す」
http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021601000122.html
エルサレム16日共同=長谷川健司】作家の村上春樹さん(60)が15日夜、イスラエル文学賞エルサレム賞」の授賞式で記念講演し、イスラエルパレスチナ自治区ガザ攻撃に言及した上で「わたしたちを守るはずの制度が組織的に人を殺すことがある」と述べ、一人一人の力で国家や組織の暴走を防ぐよう訴えた。
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講演は英語で約15分間行われ、約700人の聴衆が大きな拍手を送った。一方で「政治的な内容で不愉快。イスラエルに賞をもらいに来て批判するのはおかしい」(中年男性)という声も聞かれた。

村上春樹さんの講演要旨
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html
一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

このスピーチが、どこまでイスラエル批判に踏み込んでいるか、ということについては微妙なところです。要約を読むだけでも、「壁」とはイスラエルであり「卵」とはパレスチナである、という単純な図式の話では無いように思われます。
とはいえ、今のイスラエルで「壁」に言及するということは当然あの分離壁を連想させずにはいられないのであって、文脈を考慮にいれれば、これは暗にイスラエルを批判したものである、と読み取れなくも無いでしょう。
ただし、この村上氏の講演は、結局は予定調和の枠を出ませんでした。「約700人の聴衆が大きな拍手を送った」というのがそれを証明しています。スーザン・ソンタグと同じく、村上春樹の講演も結局はイスラエルの「寛容さ」をアピールする以上の衝撃を与えませんでした。
いかに村上春樹がリベラルな視点を持ち続けていたとしても、やはり彼は先進国の作家、文化人であって、その役割を超えるのは困難であるのです。だからといって村上春樹に「政治的」スピーチを行うように圧力をかけたことが不当だとは思いません。作家であっても当然「政治的」であってよいのです。
問題は彼をとりまく「しくみ」の力が、彼が一定以上の政治的メッセージを行うことについて束縛しているということです。当然、人間は自由であるので、「しくみ」の束縛を捨てることはまったく不可能ではありません。しかし、ぼくがカルデロンさん一家の「不法」滞在問題で入管に怒りを燃やしても自身の日本国籍を手放さないのと同様に、サルトルがけして「無名の一市民」として運動に参加しなかったのと同様に、村上春樹村上春樹というポジションからはけして逸脱しなかったのです。
このことを考えて村上春樹の講演録の要約を読むと、それは村上春樹の自身に対する言い訳のようにも思えてきます。

一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

「制度がわたしたちを利用し、増殖する」というのは、「エルサレム賞」を与えられた村上春樹そのものではないでしょうか。「エルサレム賞」という「壁」、あるいは「文化人村上春樹」という「壁」。彼は、それを「許してはならない」と言います。しかし、結局彼は「制度」の枠内でスピーチをすることを選択したのです。
ただ、村上氏はまた「制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ」といいます。ぼくにはこれが、彼が「あえて」イスラエルにおいて自身にあてがわれた「役割」を引き受けることを選択した理由のように思われるのです。
村上氏の小説『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界の終わり」において、主人公の「僕」は、「壁」も含んだ「街」をつくったのは自分自身であることに気づき、「壁」の外に逃げることを選択せず、かといって「街」にも戻らず、「森」で困難な生活を送ることを選択します。「制度」が「卵」を押しつぶすとしても、「制度」もまた「卵」がつくりだしたものなのであれば(ということは、「卵」もまた「壁」であるかもしれないということです)、「制度」から逃げることはそれもまた倫理的問題をはらむのです。村上氏は受賞を拒否することもできました。しかし、その拒否がいったい何になるのだろうか、と彼は考えたのではないでしょうか。村上春樹が「制度」の外に逃げても、パレスチナ、あるいはイスラエル、世界の人々はいまだ「制度」の中にとどまったままです。なのであれば、自身もまた「制度」の内にとどまることが倫理なのではないか、と。
これは確かに村上春樹に好意的な見方すぎるし、村上春樹の「実践」としてのスピーチは、結果的に「大きな拍手」で迎えられたということで(もちろん、最善の選択を示すことはできませんが)、いくら彼のスピーチが「文学的に」優れたものであったとしても、そのパフォーマティブな効果としては、ぼくとしては最悪のものだったと評価します。
たとえば、「森」に行かず「街」のなかで生活しながら「街」をかえていく手段があったはずだともいえます。結局「役割」をあえて受容するというのは自身にたいする免罪符にはなっても「実践」としてはどうでしょう?ただし、ぼくたちは「壁」とは「わたしたち」がつくりだしたものであるという事実に直面することによって、「街」で暮らしながら「街」をかえるすべを持たない/奪われている、という問題もはらんでいる気がします。倫理的束縛そのものが、「実践」を阻むのです。
はっきり言えば村上春樹は最初から詰んでいたということです。そして、ぼくたちも最初から詰んでいるのです。わたしたちがつくりだしたはずの「制度」に、わたしたちは束縛されているのです。この詰んでいる状態から「実践」は始められなければいけないのです。その意味では、村上春樹の今回のスピーチは非常に示唆的なものであったといえるのではないでしょうか。
参考
■洋上のスピーチタイム
http://d.hatena.ne.jp/Romance/20090216#p1