大連訪問記(初日)

生来の出不精、面倒臭がり、足の故障などが加わり、これまであまり旅行というものをしたことがない。昔から、家族旅行でもいつも「早く家に帰ろうよ〜」と言う子供だった。かつてオットだった人も旅行嫌いだったので、新婚旅行も行かなかった。オトナになってからの旅といえば、歌の仕事では盛岡や酒田や鹿児島、栃木などには行った憶えがあるが、あとは職員旅行や仕事関係の研修で北海道や名古屋・大阪、コンサートがらみで京都や伊豆ぐらいか(重複する土地を除く)。自ら進んで「旅」として行ったのは、もう20年近く前になろうか奈良への一人旅のみである。奈良は良かったので、やっぱり旅もいいな今度またどこかに行ってみようと思ったけれど、悪い事にそれからどんどん足の具合も悪くなり、出不精もぶり返していた。

しかし、ここ10年ぐらいはサスガに、自分の視野の狭さはやはり海外を見ていないことが原因なのではないかと思い、比較的足の具合が良かった時期に、かつて友人がいいよ〜と言っていたパリにでも行ってみるかと思って申し込んだ事はあったのだけれど、直前に体調をくずし、言葉が通じない不安からキャンセルしてしまった。

前置きが長いが、そんなワケで初めての海外旅行である。それがなぜ大連かというと、前にも書いたけれど生前母が行きたがっていたことと、昔から漠然と、初めての海外旅行は中国にと思っていたこともある。若い頃は共産主義社会主義に多少なりとも憧れを持った世代であり、それが実際にどう実現されているのか、あるいはされていないのか見てみたいという気持ちからだった。ただそれは長年の間に埋もれて来ていたのだけれど、新聞の折り込みでたまたま今回の「大連・旅順・瀋陽」というコースを見つけ、日露戦争の激戦地203高地を廻るとか、大連から瀋陽までは旧満州鉄道に乗るとか、ワタシにとってはかなり好奇心をそそられる旅程だったことと、夏休みにしては信じられないくらい安価だったこともあって、気持ちが変わらない内にとネットから速攻で申し込んだのだった。そうでもしないと、またなんだかだ理由をつけて行くのを止めかねないのである。

そして当日。

飛行機は何度も乗っているが機内食というのは初めてである。今回のそれは、パンにマーガリンと果物(カットパイン)、プチトマト2個、それにご飯かジャージャー麺のいずれかを選択だった。私はジャージャー麺を選んだのだけれど、きしめんみたいに平らな軟かい麺で、格別美味しいものではなかった。ジャージャーの方はまずまずというところ。なるほど機内食というのは、こんなものかという印象。初めてなので比較のしようもない。

出入国カードは旅行会社に頼むと4200円も取られるというので頼まなかったのだが中国語で、日本語のインストラクションがなかったのでやや戸惑った。裏が英語だったので、やっぱり多少なりとも英語をやっといて良かったなぁと思いながら、なんとか書く事ができた。折角なので英語を見ながら中国語の面に記入してみた。

さて、そんなことをしている間に、あっという間に大連周水子国際空港に到着である。窓側の席だったので、空港周辺一面に巨大な集合住宅が立ち並んでいるのを実際に見ると、やはり圧倒された。土地は勿論国有だし、こんなに同じ建物がズラリと並んでいたら自分の家がどこか分からないんじゃないかしら、と思う。そういうことは日本の団地などでも勿論思うことはあるのだが、大連の集合住宅は一つ一つがとてつもなく大きく、また、一カ所に集められていて圧巻というか、衝撃的だった。

飛行機を降りると、現地ガイドさんの案内でバスで旅順203高地へと早速観光に向かう。一行は私を含めて21人。リタイア後のご夫婦や家族連れが多いが、男性の一人参加や、小学生の女の子とおばあちゃまというカップルもいる。旅順までのバスの窓から外を眺めると、どの集合住宅も古くてガラン堂みたいな感じ。一階だけは商いをやっているので派手な看板が目に付くけれど、買い物をしている人もあまりいないし、商いをしているどの人もダルダルでやる気なさそうに見える。大連は日本で言えば盛岡ぐらいの緯度で、当日の気温は26℃と比較的過ごし易かったのだが。あちこちで、将棋や麻雀などの賭け事をしている男達の姿も見られた。勤勉な人達はどこかのビルで働いているのか、外に出ている人達には覇気がない。

バスの中でガイドさんが両替をしてくれたが、今日のレートは1元=15円とのこと。私は旅立つ前に、かさばりそうな土産は宅配で注文しておいたので、もうあまり散財する気がなく、とりあえず1万円分だけ替えてもらった。車中、運転手が用意して来たという冷たいミネラルウォーターを10元で販売していたが、翌日に乗った瀋陽行きの列車内で買ったそれは3元だったのだから、これは大変高い買い物だった。

203高地の「高地」はm(メートル)という意味らしく(実際には海抜206mとのことだが)、山の麓に住んでいる私などから見ればどうということのない高度なのだが、大連周辺には山が少ないので、結構高い所に来た感じがする。

登り口から天辺までは、別の小型バスに乗り換えて上った。運賃は100元。昇り切ると、乃木大将が爾霊山(にれいさん=203の当て字)と書いた文字を彫った忠魂碑が建っている。また、ロシア軍の要塞に向けて撃った大砲なども見れる。あいにくの曇天で旅順港は見えなかったが、さすがに日露両国がここを要塞として攻防しただけのことはあり、見晴らしは抜群のところだった。忠魂碑界隈の階段などに黒い蝶や蟻を見かけたが、それはあたかもここで戦死した人達の魂のような気がして、捕まえたりうっかり踏んだりしないように注意した。帰りの小型バスで乃木保典(次男)の戦士した場所やロ軍の砲弾跡などを見ながら下りる中で、運転手が当地のパンフレットを2000円で売っていたが、誰も買う人はいなかった。

日露戦争の停戦が締結された水師営会見所では、現地女性ガイドの流暢といえば流暢、アヤシイといえばアヤシイ日本語説明を聞く。乃木大将らは目の前のテーブルを囲んで作戦会議もしていたがここは野戦医務所を兼ねており、同じテーブルの上で傷病兵の手術もしていたとのことで、建物自体が全体に暗く、展示してある写真も、お偉いさんの記念写真もあるけれど凄惨なものも目立った。隣の部屋には満鉄の社員が残して行ったという当時の日本の女優さん達のポスター(京マチ子や水之江滝子といった人達)が何枚かと、食器などが陳列してあり、切り子のグラスなど一部は販売もしていた。その他にも、特産の瑪瑙を使った宝飾品やケータイストラップなどの小さな土産物を販売している。さっきのガイドさんは店員に早変わりし、なぜか私に取り付いてしきりに買わないかと薦めてくるのだが、サスガにこんな陰気なところで土産物など買う気もせず、なんとか振り切った。その後も色々案内された民芸品店や土産物屋でも、一様に店員さんはマンツーマンで付いてくるので閉口した。

203高地から大連に戻る車中からは、半ば崩れたレンガ作りの家に住んでいる貧しい人達の洗濯物が見えたかと思うと、その直ぐ隣には超高級マンションが建ち並んでいるのだが、超高級マンションはすぐに売り切れるのだと言う。

夕食は大連の郷土料理ということだったが、「幻の大連」で読んでいた餃子は二日目の瀋陽で味わう予定で、この日食べたもののどれが郷土料理なのか、普通の中華料理とどう違っているのかはよく分からなかった。ビールは青島ビールで、これは500mlで25元。日本のビールはアルコール分が5%ぐらいらしいが、ここの青島は3.9%とのことで、なんだか物足りない感じというか炭酸飲んでいるような感じだ。でも、料理が辛いものが多いので、やっぱり飲みたくなる。

ホテルはいみじくも、パリ旅行に行く予定を立てていたときに泊まろうと思っていたメルキュールだった。こんなところでこのホテルに泊まろうとは思いもしなかったが、なかなか快適というか、むしろ豪華過ぎるくらい。その後、足裏マッサージというのをやってもらったのだが、それはまた明日書こうと思う。