「俺とは一体何だ?」 中島敦『中島敦全集2』(ちくま文庫版)

 この夏、公開された細田守監督のアニメ映画『バケモノの子』は、ひねりの利いた「父と子」の物語であり「強さ」をめぐる物語でもあった。『バケモノの子』に使われていた小説は二つ。ひとつは、九太が読んでいた『白鯨』。もうひとつは、中島敦の短編「悟浄出世」「悟浄歎異」である。ぼくは気づかなかったが、エンドロールに参考文献(?)としてクレジットがあったらしい。
 中島敦と言えば、国語の教科書に載っていた「山月記」。以来、長い時間を経て、再び中島敦を読むチャンスがめぐってきた。手に取ったのは「わが西遊記」(「悟浄出世」「悟浄歎異」)や、パラオ南洋庁に国語編修書記として赴任した見聞をもとにしたいわゆる南洋物が収録された『中島敦全集2』(ちくま文庫)。
悟浄出世」は、悟浄が「俺とは何だ?」「魂とは何だ?」と悩み日々を描く。悟浄はその深い苦悩ゆえ、流沙河の河底に梄む妖怪(ばけもの)たちから「あいつは病気だ」といつばかにされていた。しかし、悟浄は、河の底に梄む賢人たちに教えを乞う旅に出る。快楽とともに生きることを勧めるもの、神を信ぜよと叫ぶもの、座禅を組んで無我の境地に入るもの、隣人愛を説くもの、さまざまな教えに接した悟浄は、実は皆何もわかっていない、ただわかったことにしようというお約束で動いているということを知るにすぎない。悟浄は不器用なせいで、このお約束を前提にわかったふりをすることができないのだ。自分は「気の利かない困りもの」だと独りごちる悟浄は、ある夜、観音菩薩から「身の程知らぬ『何故』は、向後一切捨て」、三蔵法師の天竺をめざす旅に加わるようお告げがある。この夢のお告げを聞いた悟浄は、こんなお告げは今まで自分が聞いてきた賢人たちの教えと変わらないと思いつつ、考える。
「……そういう事が起りそうな者に、そういう事が起り、そういう事が起りそうな時に、そういう事が起るんだな」
 悟浄がこのお告げを信じる気になったのは、ここまで悩み苦しみ抜いてきたからこそである。その後、悟浄が悩まなくなったわけではないが、悟浄は自分を認めることができるようになった。ここにあるのは、正しい時に正しいものと出会うことができたという感動だ。
「悟浄歎異」では、考えるよりも身体が先に動き、自然と一体になっているかのような悟空、夏の木陰の午睡、渓流の水浴など、この世の楽しみをいくつも挙げる八戒、あまりにも弱く「まるで自己防衛本能がない」三蔵法師ら、悟浄にとっての異文化との出会いが描かれ、少しずつ悟浄の目が開かれていく。救いというには、もささやかなものだが、それでも悟浄の心にほの温かいものがともる。
 こう見てくると、悟空や八戒へのあこがれと、南洋への思いは、重なり合うところがあるような気がする。自分とは何かという存在論的な問いに拘泥し続ける「かめれおん日記」や「狼疾記」の作家は、「鷄」「マリヤン」など、パラオの自然や風俗に目を見張る人でもある。南洋庁を辞し、本格的に作家生活に入ろうとした矢先、持病の喘息が悪化し33歳の若さで死去。もう少し長生きしていれば、きっとすごい作品を書いたに違いない。