ふたつの悲しみ トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

ティファニーで朝食を』をと言えば、オードリー・ヘップバーン主演の映画を思い浮かべる人が多いにちがいない。龍口直太郎訳の新潮文庫の表紙は、ホリー・ゴライトリーに扮するヘップバーンのイラストだった。映画のイメージが先行するのは、原作小説にとってあまりいいことではないだろう。カポーティは『ティファニーで朝食を』が映画化されるとき、主演がオードリー・ヘップバーンだと聞いて「少なからず不快感を表した」ことを訳者あとがきで村上春樹が書いている。
 さらにやっかいなことに、映画『ティファニーで朝食を』はいい映画なのである。ぼくが久しぶりにカポーティの原作を読んでみようと思ったのも、映画を見直す機会があったからである。原作にはない人物を登場させたり、原作とは全く異なる結末にしてしまったり、ブレイク・エドワーズ監督は原作を大きく改変しているが、それにもかかわらず、時代の空気や原作の描こうとしたものをすくい取ることに成功している。あれは迷子の映画だと言っていい。ヘンリー・マンシーニ作曲の主題歌「ムーン・リバー」だって、「ふたりの流れ者が世界を旅する」と歌っているのだ。
「ミス・ホリデー・ゴライトリー、旅行中」
 ホリー・ゴライトリーの名刺には、こんなふうに書かれている。同じアパートに住んでいる語り手の「ぼく」(ポール)は、ホリーのパーティーに明け暮れ、社交界に話題を提供し続ける生活を心配しながらも、だんだん彼女に惹かれていく。しかし、ホリーは人や場所にしばられて、とどまるこことができない性分。彼女は飼っている猫に名前をつけていない。「自分といろんなものごとがひとつになれる場所を見つけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの」名刺に旅行中と書いてあるのは、「結局のところ、私が明日どこに住んでいるかなんてわかりっこない」から。
 そんな彼女を連れ戻そうとやって来た男がいる。テキサスの獣医でホリーが14歳のとき彼女と結婚したと主張するドクという男だ。男はホリーをルラメーと呼び、一緒にグレーハウンドバスに乗って帰ろうと訴える。しかし、ホリーは男を気遣いながらも、誘いをきっぱり断った。
「幸運を祈るわ。そしてね、ドク、ひとこと言わせて。空を見上げている方が、空の上で暮らしているよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこには雷鳴がとどろき、ものごとが消えていく場所なの」
 ホリーは自分がどんな場所にいるのか、言い換えれば、自分の居場所が地に足がつく場所ではないかもしれないことをよく知っている。お別れがやって来るのは、当然なのだ。『ティファニーで朝食を』に描かれる悲しみは、いま、ここにとどまることができないものと、置いてきぼりにされるもの、ふたつの悲しみである。
 最後にもう一度、猫のことを思い出そう。猫を探してねと頼んで消えてしまったホリーとの約束を「ぼく」は果たす。暖かそうな部屋の窓辺に座っている猫を見つけたのだ。それがほんとうにホリーの猫だったかどうかはどうでもいい。去っていったもの、残されたものの交点に描き出されたイメージとして「ぼく」がそれを認識するとき、猫ほどそのイメージにふさわしいものはないと思う。