ヱヴァ:破

 あずまんが大王のサントラ売ってないなあ。


 子供の頃、「ワ行」にも「わ」と「を」以外に「ゐ」「ゑ」があると知ったら、何故かムショウに使いたくなりませんでしたか?私は、自分がすごく頭が良くなった気がしていろんなところで使いたくなりましたが、まあそんな場面はそうそう無かったので、次第にどうでもよくなりました。たまにノートにスミに突発的に「ゑ」をいっぱい書いてニヤニヤする程度で……。だって、なんか書いてて面白い形だと思いません?
 そんな中二病の三歩手前ぐらいから二歩後ぐらいまでの少年少女の心を躍らせるアニメこそが「新世紀エヴァンゲリオン」だったわけです。たぶん。と言っても私は放映当時にエヴァをまともに観てなかったので熱狂を「新手の宗教か?よく分からん」等と思っていて(と思う。記憶があやふや)、実際エヴァって宗教というか哲学というかソッチ系の話だったと知った時には、世の中の面白さとつまらなさを同時に観た気がしたものですよ。
 で、今回観たのはそんなエヴァの「新劇場版」の第二弾「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」です。最初に言ったワ行の話に関しては、TV版放映前の企画段階におけるタイトル案だったそうで。うん、こっちの方が「なんとなくカッコいい」から好きです。
 第一弾「序」は主にTV版の原画等をベースに制作しており、結果TV版と同じっぽいけどパラレルワールドといった風になっていました。ですから「序」を観ただけでは「新劇場版」の意味が分からず、「ただ画面が綺麗になっただけ」というイメージもありましたが、今回の「破」において、そのイメージは見事に「破られ」ました。
 ベースとなっているのは大雑把なストーリー進行と使徒のデザインぐらいで、原画類は全て描き直し、新キャラや新メカもばんばん登場してやったねパパ、明日はホムーランだ!というぐらいの豪華仕様になっています。特に完全新キャラのエヴァパイロット「真希波・マリ・イラストリアス」は、エヴァキャラ全員に感じられる「庵野臭」がほとんど無くてすごく良いじゃないですか。メガネだし。緑だし(なんで後半でピンクのプラグスーツに替えやがりますか。緑で良いじゃないですかよ)。
 私は最初にエヴァを観た時「キャラが皆内向きだなあ」という印象を持っていたのですが、今作においてはそのイメージがかなり変わっている気がしました。内向きには違いないのですが、「このままじゃ駄目だ、変わろう」という想いのようなものが感じられました。それはエヴァパイロットのような少年少女が大人になるといった「成長」は勿論の事、もう大人になっているキャラも旧世紀で停滞したままでなく、少年少女と共に何かしらの変化を起こそうという意志があったように思います。そして、そういった「作品全体のポジティブさ」の象徴が、新キャラの真希波さんなんじゃないかなあと。それでいて特別ストーリーには(まだ)絡んでいない辺りは上手いと思います。
 勿論、ヱヴァはまだ完結していないので、このポジティブさも見せかけというかフェイントの可能性も十分にありうるのですが、ラストでシンジ君があんな事になってしまった以上、テンション上がる方向で進むんじゃないかなーと勝手に思っています。とりあえず、この「破」まで観た感想としては、TV版よりは断然面白くて好きです。いわゆる「セカイ系」の先駆けとなったTV版エヴァは、今観ても少々ぶっ飛びすぎたところがあると思うので……。正直、今でも「人類補完計画」とかよく分かりません。
 あと今作においては、アスカの苗字が「惣流」から「式波」に変わっていますね。これってやっぱり、「綾波」及び新キャラの「真希波」と合わせた結果なんですかね。主人公であるシンジ君の苗字は「碇」ですから、「仲間のエヴァパイロットという『波』に翻弄されつつも切れない『錨』」といったイメージを持っていると見ましたが、どうでしょうか。とすると、シンジ君という名の船に乗っているのが他の登場人物なのか、それともセカイなのかは分かりませんが。


 そういえば、以前コメントしてくれた方が、「エヴァガンダムの影響下にある」というような事を書いていました。それも一番の問題作である「機動戦士Vガンダム」。エヴァの漠然としたイメージにしてセカイ系の特徴である「個人の繋がり=世界」といったイメージと併せて考えると、Vガンダムの「主人公の少年が友達の少女を助けるために戦争で人を殺しまくる」という地獄のようなシチュエーションは、確かに後のセカイ系に繋がると言えなくもないですね。
 これが1stガンダムなら「主人公の少年は強いからいろんな敵を倒すけど、それも戦争の一部でしかない」といった描写もあるのですが、Vガンダムは「主人公の少年」がとにかく鬼のように強いので、そのまま戦争の切り札のようなイメージになってしまっており、そうやって「戦争に参加する主人公と、主人公の強さ」をどんどん短絡化していくと、「主人公の行動=世界の行く末」になってしまう、という感じでしょうか。しかもVガンダムは主要キャラの感情の揺れ幅と、それによる作戦行動と結果がメチャクチャだったので、「数人の超個人が世界を動かす」という突拍子の無い構造になっていましたから……やっぱり突き詰めるとエヴァになるのかなあ?
 でも、忘れてはいけないところとして、Vガンダムは良作駄作以前に、作品として破綻しています。観ただけで「ああ、これ作ってる人は病気なんだな」というのが分かる、ひどいアニメです。で、そんなアニメの影響を受けてエヴァが作られたのだとしたら、やっぱりエヴァにも「病気」が伝染したりもするわけでして(「病気」の自覚があったかどうかは別です)。ただ、その病気は「現代社会」に蔓延している、漠然とした曇り空のような心持ちに通じる「病気」でしたから、妙なところで共感を得てしまい、世界に評価されてしまったんじゃないかなあ等と妄想してみたり。
 富野監督はブレンパワードでリハビリして∀ガンダムで完全復帰し、Ζガンダムを「新訳」としてポジティブな物語として再構成しました。今回のヱヴァも、単に焼き直しや新たに謎を解くといったものではなく、「新劇場版」となっている以上、TV版とは違うアプローチがあって当然です。それが「ポジティブな作品作り」なんじゃないかなあと思うわけです。
 「新世紀エヴァンゲリオン」は、終末思想が人々の間にあったり無かったりする1995年に放映された、「新世紀」の名を冠するアニメです。バブルもとっくに崩壊して、ガンダムも病気になった後に異世界に突入しており、とても「明るい未来」とは口に出せないような時代に対し、「崩壊した近未来」ではなく、後にセカイ系と呼ばれる、個人の意志が世界に影響を及ぼすような「構造が変化した近未来」を、「新世紀」として描いたのです。
 あれから十年とちょっと過ぎました。恐怖の大王は勿論降ってきませんでしたし、社会のネガティブさはむしろ増した気もしますが、セカンドインパクトも起きませんでした。私達の世界はセカイ系にはなりませんでした。だったら、「新世紀エヴァンゲリオン」として新世紀を描いた庵野監督が、「今世紀ヱヴァンゲリヲン」として作り直すのは、かつてアニメ業界だけでなくいろんなメディアを賑わした者として当然の行動だったのかもしれません。
 ただ「今世紀〜」ではカッコが付きませんからタイトルからは外し、その上で「近未来」を感じさせる年代設定も極力排除されました。これにより完全に「起こり得る新世紀」ではなく、パラレルワールドの「あるかもしれない今世紀」になったわけです。これで真希波さんが365歩のマーチを歌ったりシンジ君がカセットテープを聴いたりしてるわけですから、むしろ「旧世紀ヱヴァンゲリヲン」になってるぐらいです。2chのネタスレにありそうなタイトルですね。