「いじめ」を内面化するな!!

ってことじゃないのかな、本当に言わなきゃいけないのは。

要するに、「サバルタン」としての「いじめられっ子」をどう語るのかということではないかと思うんだけど。


http://d.hatena.ne.jp/ittuan/20061112/p1

対処の方法が「他者がいじめられっ子にコミットする」だけでは、逃げ場の創出としては片手落ちなのではないだろうか。

前段で「いじめ」をその行為主体の内面問題として語ること、そして安易な犯人探しと魔女狩りを否定し、「いじめ」を一種のパワーゲームとして認識しているのにも拘らず、その対処を別の主体の行為に賭けてしまうのはリスクが高すぎると思う。

問題なのは「いじめ」をどう語るか、なのではないか。

例えば「いじめられっ子」が「自分がいじめられている」と語るとき、その「語ること」自体もの凄いストレスになる。なぜなら、未だに「いじめ」は「いじめる側」と「いじめられる側」の内面問題として語られ、「いじめられる側」は自らの構成要素にその行為を呼び込む要因があると考えられているからだ。

もっと簡単に表現するならば、「いじめ、かっこ悪い」ならぬ「いじめられ、かっこ悪い」という価値観が周囲に存在することが問題なのではないだろうか。

そのような価値観が、「いじめられっ子」が自分の置かれている状況を語ることを困難にさせ、また周囲の傍観者からの補助を阻害する要因になっているように思う。

「いじめ」は、あくまで構造的な問題として捉えなければならない。「いじめ」は「権力」と同様に、その背後の行為主体によって駆動されるものではない。それ自体が駆動する、一種の自動化されたヴィークルなのだと認識するべきだろう。

ならば、まずその「自動化されたヴィークル」がどのように駆動するのかを客観的に提示してみせることこそ、何よりも必要なことなのではないか。

そして、それをコントロールする方法を学び、更に、その行為を通じて「いじめ」というものの本質が主体から切り離されたものであり、「いじめっ子=強者」「いじめられっ子=弱者」という構図を否定することが必要なのだと思う。

そのようにしてはじめて、「いじめられる」という行為が自身の構成要素や内面を否定するものではなく、たまたまその「ヴィークル」の通り道にいただけだということが認識できるのではないか。「逃げる」にしろ「戦う」にしろ、その対象となるのは「いじめっ子」でもましてや「自分自身」でもない。自動化したヴィークルに対してであるべきだ。

一度暴走したヴィークルは、仮にその被害者が脱出した後も他の犠牲者を探して彷徨い続ける。だが、そのヴィークルは実は限定された空間でしか走ることができない。そして、そいつを動かす「プログラム」は書き換え可能なのである。


http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061113/think061113

のび太がいじめられるのは、「スネ夫じゃないから」でも「ドラえもんがいるから」でもましてや「のび太だから」でもない。彼がいじめられる理由は何処にも無い。彼は「たまたま」いじめられたに過ぎない。その原因を彼の構成要素に求めることは不毛である。

そのように、「いじめの原因」を探すことこそ「いじめ」の内面化を助長し、「いじめられっ子」をその枠に閉じ込める行為なのではないか。前述した通り、「いじめ」から逃げることは「いじめられっ子」の内面や構成要素を少しも否定するものではない。だからこそ、「体験」を書き連ねることは「いじめの助長」には繋がらない。それは「いじめ」という行為を客観視することに繋がるからだ。


対処療法として、「いじめられない方法」を共有するのも、逃げ道を確保してあげるのもいい。周囲がコミットしてあげることも重要だ。でもまずは「いじめ」の内面化を否定し、構造的問題として語ること/語らせること、その環境を準備することこそ必要なのだと思う。

そう、君がいじめられているのに、何一つ理由なんか無いのだ。ただのゲームだ。つまらないゲームにいつまでも参加している必要はないよ。とっとと降りようぜ。どうせ、そこで勝っても何も貰えないんだから。