かもしれないブログ

月一更新です。

僕が車を欲しがる理由。

時々猛烈に車がほしくなる。

田舎に住んでいるから、車がないと凄く不便だ。

都会での若者の車の所有率はどれくらいなのだろう。

車を所有する必要が無ければ、そのエネルギーを別の所に使える気がする(都会は家賃が高そうだけれど)

で、

車。

いま、CR-Zが欲しいと思っている。

街中でも時々見かける。

僕にとってのCR-Zとは何か。

いきなり結論を述べると、それは「成功」の証なのではないだろうか。

車を持てるという財力の証明(CR-Zは3ナンバー)と、

新しいセンスの良い車(完全に私見)に乗っているという姿を見てもらいたいのだ。

もし、無人島にいたとしたら、自分は車なんか欲しくならないだろうし、

まして3ナンバーってのも意味が無い。

要は、見てもらいたいのだ。

その車に乗っている自分自身を。

もし、無人島でも自分の好きな車に乗りたい!という人が居たとしたら、そういう人を

「車好きの人間」というのだろう。

でも、自分はそうじゃない。

僕が、車を買う事で買いたいのは、車自体ではなくて、その羨望が欲しいのだ。

羨望とまではいかなくても、承認欲求だろうか。

あぁ、わだっちも成長したね、と言われたい。

それだ。

要は、自慢したいのである。

同級生が時々集まりを開いてくれるが、自分はそういう所に嬉々として臨むよりも、

むしろ内心びくびくである。

負けていないか、彼らはどんな車で来るのだろう。

あぁ、自分が情けない。

そう思って、一人悲しく家路に着くこともある。

まぁ、家に帰った時は、酒が入っているから若干テンションも上がっているのだけれど。

それで、テレビをつけて(ここで見るのはだいたいニュースだね)

で、

あぁ世の中は大変だ。社会は大変だ、と嘆いてみたりもするのである。

自分は本を読むようになったが、

その理由としては、

幾つかあるように思う。

思いつくままに挙げてみる。

知識を得たい。本棚を作りたい。世界を広げたい。

でも、自分がそもそも本を買おうと思ったのは、

自分の本棚を作ろうと思ったのは、数年前にある人に会いに行ったら、

その人の家が本で一杯で、「こういう風な人になりたいな」と思ったからだった。

本を読んでみて分かったことは、

本の中の世界は繋がっているという事だった。

坂口安吾小林秀雄の事を言っていたり、小林秀雄中原中也に面識があったり(この部分は自分の中で不鮮明)、

ある作品で「ファウスト」と来れば、

ファウスト』を読んだ後であれば「あぁ、あれね。」

となる。

ファウスト』自体は、難しくて感想も言えないのだけれど、取りあえず口の中に入れてみたので、

あれだ、と分かる。

時々、知らない言葉が出てくると、ちょっとこれはまた知らないやつが出てきたな、

となる。そして、気になる。

こないだは、デカルトが出てきた。

そういう意味で、本の中の世界は、よく言われる事かもしれないけれども冒険みたいなものだと思う。

占星術では、読書と旅行は同じカテゴリーらしいけれども、納得。

ただ、本を何の為に読むのかで、そのスケールと言うか、深度というか、

それは異なるんじゃないだろうか。

金儲けの為に読みたいと思えば、そうなるだろうし。

本の読み方の本(世の中にはこんなものまであるんだな)には、本を読む前に

目的を設定しろ(しかも明確にだった)ってのがあったけど、

それは、少しおかしい。

読みたい本が、読みたいときに読めるわけではなくて、

全然興味もなかった本がすらすら読める時もあるから不思議だ。

で、その本を読んだ後に、読みたかった本が読めたりする。

いま、読んでいるのはこの本。

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

あぁ、肩がこってしまった。

時々、自分の言葉の無神経さというか、まぁ言動についてもそうなのだけど、

その辺の粗さが気になる。

気になるだけマシになったのだと思いたいけど。

今日は、本屋へ行ったら、小さい子供(つっても小学5年くらい)が

本の予約をしに来ていた。

「あぁ、本の予約したいなぁ、本の予約したいんやけどなぁ」

その言葉と声から、60代の女性の方かと思ったら、子供だったのだ。

少し驚いてしまったが、

間をおいて、こう感じたのだった。

あぁ、この子は親に何かを要求する時もこのようにしているのだろうな、と。

そういう意味で、

躾は大事。

そうしないと、身についた習慣はなかなか抜けない。

自分のように、成長してから自分自身の粗さを見つけ、愕然とすることになるからだ。

まぁ、僕はまだ自分の言動を正していこうとは思っています。

血税・お金の本質。

以前、お金の性質について考えた。

お金は、情報・言葉としての側面がある一方で、

でも実際は血であり、肉ではないか、と考えた。

でも、その考え方はもう既に日本語として生きていた。

「血税」という言葉がある。

お金を出す、という事は、血を流すという事だという考え方があるらしい。

そう、血税って言葉を何で忘れていたのだろう。

毎月・毎月・税を徴収されてるというのに、

何で気が付かなかったのだろう。

ケツゼイを変換すると、一発で「血税」と出るじゃないか。

日本は海外の危険な地域に対して援助に人は出さないが、金は出す。

と言われたことがある。

でも、それも金を出しているんだから、イコール血を流している

という事だいう考え方も出来る。

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自分の書く文章は、

自分が読んでみても、誤字脱字も多く、文章の流れ自体がガタガタだ。

自分が読んでそうなのだから、他の人が読んだらさぞ読みづらいだろうな、と思う。

何せ、思いついたことをポンポンと書いて、校正・読み直しをせずにアップしているからだ。

きれいな文章・きれいな言葉。

でも、それだけではない、人間の持つ部分もあって、

それを隠すというか、無いかのように表現するのではなくて、

それを認めた上での文章。そんなものが書ければなと思う。

それを隠すことと、無視することは違う。

だから、無視した文章は、どこかにそういう軋みみたいなのが現れるんじゃないだろうか。

僕が読みたいのは、きれいに装飾された着飾った文章ではなく、

生の人間が書いた、それでいてそれを超えようとするというか、そういう人間が見える文章が読みたい。

自分が考えた事は、すごい発見のように思える。

自分の場合の「お金と血」の事に関してもそうだ。

実際は、もう既にすべての考え方は出し尽くされているのかもしれない。

でも、それも意識下にあるものを表に出してみて、

それを自分で見てみて、

世の中を見ると、それは実際にある、と。

そんな事、知ってたよ。

そんな事、知ってるよ。

と言われるかもしれない。

でも、それでも前に進めているんじゃないだろうか。

少なくとも、自分の中に何があったのか

自分が何を考えどう表現できるのか

という部分は分かるし、

それを表に出していくことで、次に考える事、思う事に進めるような気がする。

最近は、

ドストエフスキーの悪霊と

坂口安吾

黒柳徹子

を読んでいる。

それらを組み合わせてなにが出来るか、何も出来ないか。

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

小さいときから考えてきたこと (新潮文庫)

小さいときから考えてきたこと (新潮文庫)



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人の入れ替わりが激しい。

人の入れ替わりが激しいと、

また一からはじめないといけない。

教えないといけない。

そのために、どれだけのコストがかかっているのか。

これは、いま居る仕事場に関してもそうだし、自分自身に関してもそうなのだ。

自分自身に関しては、そういう環境を見つけ出す才がある、というか、

もっとよい環境を嗅ぎ出す能力に欠けているのだろうと思う。

うちに来ないか、と言われて、そこへ行ったとしても、

自分の中にある何かがある限り、それは続くような気もする。

問題は、放っておくだけでは解決しない事(人間の目で見る原発問題など)

と、

放っておいたら、環境自体が変化して解決しました

って事もある。

自分の場合は、後者だろうか。

水星は足が速い星らしく、そしてまた順行・逆行を短期間に繰り返す星らしい。

いまの自分は、まるで水星みたいな感じだなーと思った。

多分、シフト勤務のせいだと思う。